趣味の事(サッカー、競馬、音楽、映画 etc...)や その日の出来事や、気になったことを書いています。気まぐれなんですけどね^^

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
マルコ・ファンバステン
(Marcel Van Basten 1964-)

vanbasten13.jpg

フルネームマルコ・ファンバステン
Marcel Van Basten
ニックネームサン・マルコ
国籍holland-fs.gif
生年月日1964年10月31日
出身地ユトレヒト
ポジションFW(CF)
身長188cm
体重80kg
代表デビュー1983年9月7日(通算58試合,24得点)
所属クラブ1970-80: UVVユトレヒト
1980-81 :エリンベイク・ユトレヒト
1981-87 :アヤックス
1987-95: ミラン(イタリア)
主なタイトル1988年: 欧州選手権優勝
1988-89: UEFAチャンピオンズカップ優勝
1989年: インターコンチネンタルカップ優勝
1989-90: UEFAチャンピオンズカップ優勝
1990年: インターコンチネンタルカップ優勝
個人タイトル1988年: 欧州年間最優秀選手
1988年: 世界年間最優秀選手
1989年: 欧州年間最優秀選手
1992年: 欧州年間最優秀選手
1992年: 世界年間最優秀選手
1992年: 世界年間最優秀選手


1964年10月31日生まれ。
テクニックに優れ、冷静で的確な状況判断とイマジネーションに富み、体格に恵まれ、スピード、パワー、も備える。ストライカーとしての条件をすべて揃え、ストライカーとしての条件をすべて揃え、アヤックス、ACミランで数多くのタイトルを獲得した。

生まれはユトレヒトだが、アムステルダムのアヤックス・スクールで育ち、17歳でトップへのデビューを果たした。
3シーズン目となる1983-84シーズンには、26試合で28得点をあげて得点王となり、さらに85-86シーズンには欧州でも最多の37ゴールをあげ、当時単純に得点数だけで最多得点者が表彰されていたゴールデンブーツ賞を受賞した。

そして86-87シーズンには4年連続得点王、自ら決勝ゴールをあげて欧州カップ・ウィナーズ・カップ優勝(1-0ロコモティフ・ライプチヒ=東ドイツ)を決めた。これを置き土産に、翌シーズンにはオランダ代表の同僚ルート・フリットとともにACミランに移籍した。

87-88シーズンには負傷のためにほとんど棒に振るが、終盤に復帰し、88年に西ドイツで行われた欧州選手権で爆発。5得点あげて得点王となり、オランダ代表を初めての国際舞台での優勝に導いた。中でも決勝のソ連戦での2点目となったボレー・シュートは、後世に語り継がれる素晴らしいゴールだった。
その後もACミランで、リーグ優勝4回、チャンピオンズ・カップ優勝3回、トヨタカップ優勝2回などタイトル獲得に貢献。自身も88年、89年、92年と3回の欧州年間最優秀選手(バロンドール)に選ばれた。

しかし、足首の負傷に悩まされ、再三手術を繰り返したが回復せず、94年に30歳を前にして引退を決意した。
グラスワンダー
Grass Wonder

grasswondaer.jpg

馬名グラスワンダー
Grass Wonder
勝負服umagrasswonder.gif
Silver Hawk
Ameriflora
生誕1995年2月18日
死没(現役種牡馬)
性別
毛色栗毛
生産フィリップスレーシング
生国u_s_a-fs.gif
馬主半沢(有)
調教師尾形充弘(美浦)
生涯成績15戦9勝  [9-1-0-5]
獲得賞金6億9164万6000円
主な勝ち鞍有馬記念2回、宝塚記念、朝日杯3歳S、京王杯3歳S、毎日王冠、京王杯SCなど
主な受賞1997年:最優秀3歳牡馬
1999年:特別賞



Silver Hawk
鹿毛 (1979)
RobertHail to Reason
Bramalea
Gris VitesseAmerigo
Matchiche
Ameriflora
鹿毛 (1989)
DanzigNorthern Dancer
Pas de Nom
Graceful TouchHis Majesty
Pi Phi Gai


グラスワンダーが無敵の3歳時にマルゼンスキーの再来などと言われた。
彼は古馬になるとケガに泣かされながらもグランプリでは必ず
不思議と復活する馬だった。

なんとグランプリ3連覇!この偉業を達成して、ライバルのエルコンドルパサー、スペシャルウィークが引退してしまうとまるで今までとは違う馬になっていった。

彼は3歳時の4戦は圧倒的な強さを見せ付けた。首差は合計16馬身半。ほんとうにマルゼンスキーの再来と言われても何も不思議なことではなかった。

勿論3歳のチャンピオン(最優秀3歳牡馬)に選ばれた。
しかし彼は外国産だったためクラシックには出走は許されず、東京で開催されるNHKマイルCに出走予定だったのだが残念な事に馬にとっては致命傷の骨折した。誰もが勝利すると思われたが・・・。残念ながら春は全休せざるを得なくなった。
その出走予定だったNHKマイルCを勝利したのは後の永遠のライバル「エルコンドルパサー」であった。

骨折明けは秋の毎日王冠からスタートさせたが結果は得られず、その年最後の締めくくりの有馬記念で見事に復活を果たした。その翌年の有馬も制することになる。

本当に不思議なのだが彼はグランプリに復活するグランプリ男だった。
パオロ・マルディーニ
(Paolo Maldini 1968年-)

maldini.jpg



フルネームパオロ・マルディーニ
Paolo Maldini
ニックネームパオリーノ
国籍italy-fs.gif
生年月日1968年6月26日
出身地ミラノ
ポジションDF(LSB,CB)
身長186cm
体重85kg
代表デビュー1988年3月31日(通算126試合,7得点)
所属クラブ78-84年:ACミラン
84-85年:ACミラン
85-86年:ACミラン
86-87年:ACミラン
87-88年:ACミラン
88-89年:ACミラン
89-90年:ACミラン
90-91年:ACミラン
91-92年:ACミラン
92-93年:ACミラン
93-94年:ACミラン
94-95年:ACミラン
95-96年:ACミラン
96-97年:ACミラン
97-98年:ACミラン
98-99年:ACミラン
99-00年:ACミラン
00-01年:ACミラン
01-02年:ACミラン
02-03年:ACミラン
03-04年:ACミラン
04-05年:ACミラン
05-06年:ACミラン
06-07年:ACミラン
タイトル88-89:UEFAチャンピオズリーグ優勝
89年:インターコンチネンタルカップ優勝
89-90年:UEFAチャンピオンズリーグ優勝
90年:インターコンチネンタルカップ優勝
93-94年:UEFAチャンピオンズリーグ優勝
02-03年:UEFAチャンピオンズリーグ優勝
94年:世界年間最優秀選手



1968年6月26日生まれ。
名門ACミランとイタリア・サッカー界のサラブレット。
欧州チャンピオンズ・カップ優勝、イタリア代表の経験を持つチェザーレを父に持つが、その父を大きく上回る数々のタイトルと実績を残している。長身で身体能力に恵まれ、テクニックに優れ、攻守にダイナミックなプレーを見せる左サイドバックとして、ACミランでは17歳で、イタリア代表では、19歳でレギュラーの座をつかんだ。

さらに、経験を積んでプレーも成熟し、ファケッティ、カブリーニと常にワールドクラスの左サイドバックを擁してきたイタリア代表の系譜を受け継ぐ存在となり、さらにその中でも歴代ナンバーワンと呼ばれるにふさわしい活躍を見せている。
代表としては、88年3月のデビュー以来、同年西ドイツでの欧州選手権(3位)、90年地元開催のW杯(3位)、94年米国W杯(準優勝)、96年欧州選手権、98年W杯、2000年欧州選手権(準優勝)と常にレギュラーで、2000年末までに114試合に出場。
すでにゾフの持つ112試合を破り、イタリアの歴代最多記録を更新中だ。ACミランの一員としても、3度の欧州チャンピオンズ・カップ優勝(89 年、90年、94年)、2度のトヨタカップ優勝(89年、90年)など、華々しい経歴を持つ。
mrcb.jpg


日本中央競馬会調教師である吉永正人調教師が胃癌のため11日午後0時51分死去しました。64歳でした。

鹿児島県鹿屋市生まれ。1961年に松山吉三郎厩舎(松山康久調教師の父)から騎手としてデビュー。
初勝利は11月25日にエビスクラウンで勝利。
逃げ、追い込みなどの極端な戦法を得意とした個性派ジョッキーとして自分のスタイルを確立した。
1982年にモンテプリンスで天皇賞(春)を制してようやくビッグタイトルを獲得すると、翌1983年には追い込み馬ミスターシービーとのコンビでクラシック三冠を達成。
1986年に騎手を引退するまでに2753戦461勝(重賞37勝)成績。

引退後は調教師になった。吉永護騎手の父でもある。

本当にとても残念で悲しいニュースで衝撃的でした。
自分にとって吉永騎手とは、私の大好きなミスターシービーの主戦ジョッキーだった。
彼の騎乗を見た時は凄い大胆でマジシャンのような騎乗ぶりに自分は圧倒された。
本当に今まで私達に感動を与えてくれて頂きありがとうございました。
ミスターシービーと吉永調教師のことは一生私の記憶から忘れることはないでしょう。ご冥福をお祈りします。

主な騎乗馬
シービークイン (毎日王冠、京王杯スプリングハンデ)
シービークロス (金杯(東)、目黒記念、毎日王冠)
モンテプリンス (天皇賞(春)、宝塚記念)
ミスターシービー (牡馬三冠、天皇賞(秋))
モンテファスト (天皇賞(春))
など・・・。
フレデリック・ショパン
(Frederic Chopin 1810-1838)

chopin.jpg


フレデリック・フランソワ・ショパンは、39年の短い生涯をほとんどピアノ音楽だけに捧げた特異な作曲家だった。

四歳頃からピアノに親しんだフレデリックは、8歳で協奏曲を弾きこなすほどの天才ぶりを発揮し、ワルシャワの貴族たちからはモーツァルトの再来ともてはやされた。
しかし、モーツァルトはもとよりベートーヴェンでさえも、音楽家としての出発は作曲家ではなくピアニストであったのに、彼等の作品は音楽のほとんどすべての分野にわたっている。

ショパンがピアノの詩人といわれ、作品がピアノの心と称されるように、彼の音楽はもともとピアノ的なのであって、ピアノという楽器以外で彼の音楽を表現することは不可能に近い。

ショパンの作品があれほど美しいメロディーをもっていながら、ヴァイオリンや管弦楽器に移されると、幾つかの例外はあるにしても、大部分が面白味を失ってみれば、いかに彼の音楽がピアノと切り離せないものかが分かる。
ピアノ的であるということ意外に、ショパンの音楽の色合いを特徴づけているものが2つある。1つは彼の生まれ故郷ポーランドの民族色で、他はパリの貴族会社の洗練された華麗さである。幼年期と少年期をワルシャワで、後半生をパリで過ごした彼の音楽には、この2つの特徴が混然と一体になっている。
ショパンは、フランス人の父とポーランド貴族の血をひく母との混血であった。これらの事情が、繊細で華美な一面、ほの暗い情熱とメランコリックな情緒を漂わせる、ユニークな音楽を作り出した。

彼は生涯に3つの恋をした。彼のあまりに潔癖で高貴な魂が、世俗的な結婚にこたえられなかったのか、まったく実を結ぶことはなかったが、幾つかの素晴らしい曲を生むきっかけとなった。
当時ワルシャワ音楽院声楽科の生徒だったコンスタンチン・グラドコフスカとの初恋は、「ワルツ変ニ長調作品70の3」や「第二ピアノ協奏曲」の第二楽章に少なからぬ影響を与えたし、彼の旧友ヴォジンスキー家のマリア・ヴォンジスカとの第二の恋は、「別れのワルツ」の別名で知られている「変イ長調作品69の1」を生んだ。
ショパン25歳の夏のことである。最後の恋、有名な女流作家ジョルジュ・サンドとの同棲は、生来ひ弱な彼を疲労させた。

サンドの愛犬がじゃれ回るのを見て思いついたと言われている「子犬のワルツ」をはじめ「華麗なるワルツ」、「幻想即興曲」、「葬送行進曲付ソナタ」
など充実した多くの作品を書きながら、1846年、9年間に及んだサンドとの生活に終止符をうった彼は、再び彼女のもとにもどらなかった。
3年後の1849年10月17日、疲れて胸を病んだショパンは、パリで39歳の生涯を閉じた。マドレーヌ寺院で行われた葬儀には、モーツァルトのレクイエムが用いられたという話だ。

さっき紹介した曲以外にもまだまだたくさんの作品を残している。彼の作品にはニックネームのついたごく有名なものばかりを拾いあげても、大変な数だ。しかし大別して、サロン的な貴族趣味を反映した「夜想曲」「前奏曲」「練習曲」や「ワルツ」などと「スケルツォ」「マズルカ」「ポロネーズ」のように、ポーランドの土の香りが濃いものと分けられる。

Prev | HOME | Next

Design by mi104c.
Copyright © 2017 SMILEY CIRCLE  管理人のひとりごと, All rights reserved.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。