【追悼】
フェレンツ・プスカシュ
(Ferenc Puskas Biro 1927−2006)

| フルネーム | フェレンツ・プスカシュ Ferenc Puskas Biro |
| ニックネーム | 走る少佐、パンチョ |
| 国籍 | 

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| 生年月日 | 1927年4月2日〜2006年11月17日 |
| 出身地 | キシュペスト |
| ポジション | FW(CF,ST) |
| 身長 | 172cm |
| 体重 | 75kg |
| 代表デビュー | 1945/8/20(通算88試合,83得点) |
| 所属クラブ | 1939-49:キシュペストAC 1949-56:ホンベド・ブダペスト 1958-67:レアル・マドリード(スペイン) |
| 主なタイトル | 1958-59:UEFAチャンピオンズカップ優勝 1959-60:UEFAチャンピオンズカップ優勝 1965-66:UEFAチャンピオンズカップ優勝 |
1927年4月2日生まれ。 1950年代に世界最強を誇った『マジック・マジャール』こと、ハンガリー代表のエースであり、キャプテン。60年代には伝説のレアル・マドリードの中心となった、サッカー史上に残る名プレーヤーの1人。左足の技巧と強烈なシュートを武器に、43-44シーズン、16歳の時にキシュペストのレギュラーとなった。47-48シーズンには32試合で50得点をマーク。翌シーズンからは、新しく創設された陸軍のクラブ、ホンベドに吸収され、集められた強力なメンバーとともに、7シーズンに5回の優勝を果たした。代表チームのメンバーとしては、45年8月のオーヅトリア戦で18歳にしてデビュー。52年にはキャプテンとして臨んだヘルシンキ・オリンピックで金メダルを獲得した。翌53年には有名なウェンブリーでのイングランド戦勝利を演出。サッカーの母国を初めてこの『聖地』で6-3と破った試合で2得点をあげるなど、その名を高めた。ホームでのリターン・マッチでも7-1とイングランドを粉砕し、4年間無敗で54年スイス・ワールドカップに絶対的本命として臨んだ。しかし、グループ・リーグでの西ドイツに2-3と敗れと敗れ、優勝を逃すとともに、無敗記録も途絶えた。もし、プスカシュが万全の体調だったら結果は違っていた、という説はハンガリー人だけでなく、多くの賛同を得ている。56年、スペイン遠征中にハンガリー動乱が勃発。他の数人とともに亡命を決意して、紆余曲折の末に58年からスペインのレアル・マドリードデプレーを再開する。59-60シーズンには、欧州チャンピオンズ・カップの5連覇を目指したチームで、センターフォワードのディステファノとの素晴らしいコンビを披露。決勝戦では、ディステファノが3点、プスカシュが4点をあげて7-3でアイントラハト・フランクフルトに圧勝し、歴史に残る名試合の主役となった。スペイン・リーグでも4度得点王となり、61-62シーズンには再びチャンピオンズ・カップ決勝に進出。プスカシュはハットトリックを達成したが、この時はベンフィカに3-5で敗れた。62年チリ・ワールドカップには、その当時許されていたため、35歳でスペイン代表としてもプレー。しかし、ブラジル、チェコスロバキアというこの大会の決勝を争うことになる両チームと同じ組に入り、敗退した。66年には引退して監督業につき、71年にはギリシャのパナシナイコスを率いて、チャンピオンズ・カップ決勝に進んだ。プシュカシュ選手は2006年11月17日肺炎で死去した。