趣味の事(サッカー、競馬、音楽、映画 etc...)や その日の出来事や、気になったことを書いています。気まぐれなんですけどね^^

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グリーングラス
Green Grass

greengrass.jpg


馬名グリーングラス
Green Grass
勝負服umagrasswonder.gif
インターメゾ
ダーリングヒメ
生誕1973年4月5日
死没2000年6月19日
性別
毛色黒鹿毛
生産諏訪牧場
生国japan-fs.gif
馬主半沢吉四郎
調教師中野隆良(美浦)
生涯成績26戦8勝  [8-7-4-7]
獲得賞金3億2845万1400円
主な勝ち鞍菊花賞、天皇賞(春)、有馬記念など他多数
主な受賞1979年 年度代表馬
1979年 最優秀5歳以上牡馬


インターメゾ
黒鹿毛 (1966)
HornbeamHyperion
Thicket
PlazaPersian Gulf
Wild Success
ダーリングヒメ
鹿毛 (1970)
ニンバスNearco
Kong
ダーリングクインゲイタイム
ダーリング


昭和51年の菊花賞、グリーングラスはその3週間前、鹿島灘特別でやっと3勝目を挙げた条件馬にすぎなかった。西下しても菊花賞に出走できる保証はなかった。ところが、勝利の女神はグリーングラスを見捨てなかった。賞金上位の馬が回避したことによって、滑り込みで出走権を得た。

そして迎えた本番。21頭立ての12番人気。折りからの雨で重馬場。コンビを組む安田富男騎手は考えた。「馬場が悪い、絶対に内が空く」。作戦は見事に的中した。向こう上面で5番手につけていたグリーングラスは徐々に進出。そして、4コーナーで奥の手を出した。
内を突いて抜け出し、大外から追い込むテンポイント、直線で伸びないトウショウボーイを突き放して堂々の勝利を飾った。

レース後は「馬場が味方した」「コース取りの利」「人気薄の気楽さ」など、このクラシックホース誕生をフロック視する声も多々あった。

しかし、そのフロック視する声のひっくり返すように翌年のAJC杯を快勝したことで、実力派ステイヤーとしてファンに認知された。

ただその後は敗北と栄光を味わうことになる。天皇賞は2度敗戦、岡部幸雄騎手騎乗で臨んだ3度目で勝利!
有馬記念も2度敗戦、大崎昭一騎手騎乗で臨んだ3度目にして悲願のグランプリホースとなり、これを最後にターフを去っていった。

引退後は日高軽種牡馬農協で種牡馬となり、平成8年に種牡馬を引退し余生を送っていたがアクシデントがおこり骨折で予後不良となり静かに息を引き取った。
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ヨハン・クライフ
(Hendrix Johannes Cruijff 1947-)

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フルネームヘンドリク・ヨハネス・クライフ
Hendrix Johannes Cruijff
ニックネーム空飛ぶオランダ人
国籍 
生年月日1947年4月25日
出身地ヘームステーデ(アムステルダム)
ポジションFW(CF),MF(OH)
身長176cm
体重67kg
代表デビュー1966月9月7日(通算48試合,33得点)
所属クラブ1966-67: アヤックス
1967-68: アヤックス
1968-69: アヤックス
1969-70: アヤックス
1970-71: アヤックス
1971-72: アヤックス
1972-73 アヤックス
1973-74: アヤックス、バルセロナ
1974-75: バルセロナ
1975-76: バルセロナ
1976-77: バルセロナ
1977-78: バルセロナ
1979: ロサンゼルス・アズテックス
1980: ワシントン・ディプロマッツ
1981: ワシントン・ディプロマッツ
1980-81: レバンテ
1981-82: アヤックス
1982-83: アヤックス
1983-84: フェイエノールト
主なタイトル1965-66: オランダリーグ優勝
1966-67: オランダリーグ優勝
1966-67: オランダリーグ得点王
1967-68: オランダリーグ優勝
1969-70: オランダリーグ優勝
1969-70: オランダカップ優勝
1970-71: UEFAチャンピオンズカップ優勝
1970-71: オランダカップ優勝
1971-72: UEFAチャンピオンズカップ優勝
1971-72:オランダリーグ優勝
1971-72: オランダカップ優勝
1971-72: オランダリーグ得点王
1972:UEFAスーパーカップ優勝
1972: インターコンチネンタルカップ優勝
1972-73: UEFAチャンピオンズカップ優勝
1972-73: オランダリーグ優勝
1973: UEFAスーパーカップ優勝
1981-82: オランダリーグ優勝
1982-83: オランダリーグ優勝
1982-83: オランダカップ優勝
1973-74: スペインリーグ優勝
1977-78: スペインカップ優勝
1983-84: オランダリーグ優勝
個人タイトル1971年: 欧州年間最優秀選手
1973年: 欧州年間最優秀選手
1974年: 欧州年間最優秀選手
1999年: 欧州20世紀最優秀選手


1947年4月25日生まれ。
オランダが生んだ最高の名手であり、ディステファノ、ペレ、ベッケンバウアーらと並び、サッカー史上に輝くスタープレーヤー。
また監督としても数々のタイトルを手にしている。
オランダの名門クラブ、アヤックスで育ち、17歳でトップチームにデビュー。

19歳でオランダ代表に選ばれた。
デビュー当時は、細身ながらスピードとテクニックを兼ね備えたストライカーとして活躍。

次第にアヤックスでも代表チームでも、『トータル・フットボール』の中心としてポジションにとらわれない奔放なプレーでチームをリードした。

軸足の後ろにボールを通して一瞬にして相手を置き去りにした『クライフ・ターン』と呼ばれたフェイントなど素晴らしいテクニックとスピードが一体になったプレー、戦術眼の確かさ、そして類まれなリーダーシップを発揮して、アヤックスの欧州チャンピオンズ・カップ3連覇、1974年ワールドカップ準優勝など、輝かしいキャリアを残した。

決勝で敗れたものの、74年ワールドカップで『トータル・フットボール』として世界中にセンセーションを巻き起こしたオランダ代表での活躍は、優勝した地元西ドイツよりも高い評価を受けた。

その証拠にクライフはベッケンバウアーを抑えて、この年3度目の欧州年間最優秀選手に選ばれている。
アヤックスからスペインのバルセロナに渡り5ジーズンを過ごした後、北米リーグ(NASL)でプレーし、さらにスペインのレバンテという小クラブで短期間プレーして、再びアヤックスへ戻った。

しかし、キャリアの最後となったシーズンは、アヤックスのライバルチーム、フェイエノールトで過ごした。
引退後アヤックスの監督となり、欧州カップ・ウィナーズ・カップに優勝、さらにバルセロナの監督となりリーグ4連覇、欧州チャンピオンズ・カップなど、現役時代に劣らぬ栄光を手にしている。
レッド・ツェッペリン
 (Led Zeppelin)

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私が生まれて初めてレッドツェッペリンを聞いたのは高校生の頃でした。

幼なじみの友人Jは洋楽(ハードロック専門)が好きで、遊びに行くと、必ずといっていいほどレッドツェッペリンを聞いていました。
特に興味もなかった私は、BGM程度に聞き流していました

初めて聞いた曲は【ブラック・ドッグ】という曲でした。
最初の印象は、『な~んか、なじめないな~』という感じでした。
【ロックン・ロール】も同じくなじめませんでした。

私は洋楽好きとは言っても、その当時のロック、ポップス、ビートルズなど洋楽初心者でも聴きやすい音楽ばかり聴いていたので、
聞きなれてないハードロックは体が受けつけないという感じでした

しかし【天国への階段】を聴いた瞬間、鳥肌がたつような感覚に囚われました。

何て美しいメロディーなんだろう・・・。
耳について離れないあの感覚。私はいつのまにか、メロディーをくちずさんでいました。

早速その友人にアルバムを(SYMBOLS)ダビングさせてもらい、
家に帰って、何回も何回も聞きました。
すると不思議な事に、体が受け付けなかった【ブラック・ドッグ】や【ロックンロール】がすんなり耳に入ってきました。
『なぜこんなに素晴らしい曲に気付かなかったんだろう』

いろんな曲を聞いてみたい!!そこからコレクター癖が始まるのでした。


レッドツェッペリンのメンバー

◆ジミー・ペイジ (g,vo)

本名ジェイムス・パトリック・ペイジ44年1月8日生まれ
メンバーの中では最年長。
13歳の時に親からギターを買ってもらったのをきっかけにギターに夢中になる。
音楽の他に好きだった絵を勉強する為に美術学校に進む。
その後はセッションマン時代へ。のちに(66年)ヤードバーズに参加。
ヤードバーズを解散後、ロバートプラントら新たなメンバーを率いてニュー・ヤードバーズ(レッドツェッペリン)を結成。70年代のハードロックの王道を突き進む!

◆ロバート・プラント (vo,hc)

本名ロバート・アンソニー・プラント48年8月20日生まれ
ロックンロールやブルースを好んでいた10代半ばから地元のクラブで歌い始め16歳で音楽で生活する決心して家を出た。
その後はセミ・プロ・バンドを隔てジミー・ペイジ と出会いレッドツェッペリンを結成。

◆ジョン・ポール・ジョーンズ (b,kd)

本名ジョン・ボールドウィン46年1月13日生まれ
ピアニストの父親と歌手の母親を両親にもち、その関係で2歳から舞台に立ちベースを手にしたのは14歳だった。
17歳の時にバンドオーディション合格!
バンド解散と同時にセッションプレイヤーとしての道を進む。
ジミー・ペイジと出会いレッドツェッペリンを結成。レッドツェッペリン解散後も編曲家、プロデューサー、ベース奏者、キーボード奏者として地位を築いた。


◆ジョン・ボーナム (dr)

本名ジョン・ボーナム48年5月31日生まれ
生まれた時からドラマーになることが決まっていたのかも知れない。
彼は物心がついた時からカンやポットなど叩くものが大好きだった。
ドラマーを目指したのは、なんと5歳の頃だった。
10歳のとき母からスネアドラムを買ってもらい、16歳の時にはプロのドラマーをやる決意をした。
近所に住んでいた同じ年のロバート・プラントと知り合い、後にレッドツェッペリンのメンバーになる。
その後はメンバーの中で勇逸亡くなりあえなくバンドは解散した。
  ◆お気に入りアルバム

  レッドツェッペリン
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8月16日の夕方頃に池袋にある沖縄居酒屋「かちゃし~」に久々に行った。
何故そこに行ったのかは相方の誕生日だったのと沖縄ミュージシャンの『平安隆』さんのライブを見に行きたかったのでその居酒屋さんに行ったわけであります。

自分の相方が「平安隆」さんの大大ファンでもう三度の飯より好きな平安さんのライブを見に行った。まぁ~私も見たかったのですが・・・ww

その居酒屋で相方の友達ちと待ち合わせをしていたのだが・・・自分らがみんなより先に着いた。その後ポツポツとメンツが集まり、合計6人で楽しむことに・・・。

みんな少し出来上がった頃に・・・ライブが始まった!!
勿論、沖縄音楽、沖縄民謡をいくつかプレイしてくれました。
その中で自分の好きなブルース調な曲もプレイしてくれてなんとなくうれしくなった。沖縄音楽はどことなくブルースに近い感じがしてとても入りやすいし、ミュージシャンの人たちも心が温かい人達でほんと癒されるんだよなぁ~。
「唐船どーい」などのれる曲になると周りの人達も一緒になり踊る!踊る! まるで踊らにゃ損損!!てな感じでしたwww

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自分もみんなも結構はじけました。気分も爽快!相方も大満足してました。
まぁ~良かった良かった、年に1度のバースデ~やから楽しんでもらえて良かった!!

その後は横のお客さんたちとも意気投合し飲んだ!!

まぁ~どちらにせよ!音楽は人それぞれ好みや感性は違うので、もし興味がある人は是非そのライブも兼ねて足を運んでみてくださいwww

興味ある人は詳しい詳細を・・・どぞww

平安隆さんのファンサイト
http://kariyusi.fc2web.com/

沖縄居酒屋かちゃーし~
http://kacha-si.hp.infoseek.co.jp/

リッチー・ブラックモア
(Ritchie Blackmore  1945年-)

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キャリア、実力、人気の3拍子を兼ね備えたロック・ギター界の大御所、リッチー・ブラックモアは、1945年4月14日イギリスのウェストン・スーパー・メアで生まれる。
彼が最初に手にしたギターは、11歳の誕生日にプレゼントされたスパニッシュ・ギターである。

このギターを手に入れたリッチーは、さっそく近所に住んでいたロックンロール・ギタリスト、ビッグ・ジム・サリバンの元に通い数々のテクニックをマスターしていった。

数年後には友人を集めてバンドを結成するがそれだけでは満足出来ず、18歳になるとロックンロールの盛んであったハンブルグに渡る。以後22歳までロンドンとハンブルグを行き来していたが、ここで彼の運命を変える人物と出会う。


言うまでもなくジョン・ロードだ。ジョンに誘われ「ラウンドアバウト」というバンドに加入した訳だが、これがあの「ディープ・パープル」の前身である。69年、パープルは『紫の世界』でデビュー。

このアルバムからシングル・カットされた「ハッシュ」は全米ヒット・チャートの4位をランクする大ヒットとなり、彼らは翻刻よりもアメリカで一躍大成功を収めた。この後『詩人タリエシンの世界』『ディープ・パープルⅢ』『ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ』と立て続けにリリースしたが、ここまではジョン・ロード色の濃いサウンド・・・・・、つまりロックとクラシックの融合を目指したサウンドを繰り広げているため、リッチーがバンド内に及ぼす影響はまだまだ全開ではない。彼の音楽性が本格的に取り入れられたのは70年に発売した名盤『イン・ロック』からである。

このアルバムからヴォーカルにイアン・ギラン、ベースにロジャー・ゴローヴァーが加入し、ディープ・パープルはいわゆる第2期黄金時代を迎えたのである。また、リッチーは、ここでそれまで使っていたES335からストラトキャスターにギターをチェンジしている事も忘れてはいけない。

この『イン・ロック』で新たなシタイルを成功させたパープルは『ファイアー・ボール』『マシン・ヘッド』『ライヴィ・イン・ジャパン』『紫の肖像』を次々とヒットさせる。
『紫の炎』からは、ヴォーカルにデヴィッド・カヴァーデイル、ベースにグレン・ヒューズを迎え第3期が始まるが、次作『嵐の使者』をリリースした所でリッチーは音楽的対立という理由で脱退。
このニュースは全世界のロック・ファンにショックを与えたが、脱退後すぐに彼は「エルフ」のアルバム『トライング・トゥ・バーン・ザ・サン』に参加。


そしてエルフのメンバーをそのまま集め「リッチー・ブラックモアズ・レインボー」を結成した。
(後にレインボーと名称を変えている)レインボーはデビュー盤『銀嶺の覇者』を皮切りに『虹を翔る覇者』『レインボー・オン・ステージ』『バビロンの城門』『ダウン・トゥ・アース』を続々にリリースし、本家であるパープルのお株を完全に奪ってしまった。

正に゛リッチーあってのパープル゛だった事を証明した。
そしてアメリカン・マーケットを意識した『アイ・サレンダー』が発表される。このアルバムはそれまでのヘヴィなサウンドから一変したタイトルなポピュラリティを持つロック・サウンドを繰り広げている。
今でこそこの変貌は成功と言えるが、当時はそれまでのサウンドを惜しむファンも多く賛否両論の作品であった。その後『闇からの一撃』『ストリート・オブ・ドリームス』をリリースした後、彼はレインボーの活動を中止した。理由はディープ・パープル再結成である。

あの第2期黄金メンバーを集めまたもや新しい熱きアクトを開始したリッチーのパワーは衰えることを知らない。

  マシン・ヘッド
deeppurple1.jpg

キタノカチドキ
Kitano Kachidoki



馬名キタノカチドキ
Kitano Kachidoki
勝負服umakitanokatidoki.gif
テスコボーイ
ライトフレーム
生誕1971年3月27日
死没1983年9月
性別
毛色鹿毛
生産北海道門別町 佐々木範哉
生国japan-fs.gif
馬主初田豊
調教師服部正利(栗東)
生涯成績15戦11勝  [11-2-1-1]
獲得賞金211,478,800円
主な勝ち鞍阪神3歳S、皐月賞、菊花賞、スプリングS、神戸新聞杯など他多数
主な受賞1973年:最優秀3歳牡馬
1974年:年度代表馬
1974年:最優秀4歳牡馬 


テスコボーイ
黒鹿毛 (1963)
Princely GiftNasrullah
Blue Gem
SuncourtHyperion
INquisition
ライトフレーム
黒鹿毛 (1959)
ライジングフレームThe Phoenix
Admirable
グリンライトダイオライト
栄幟


父テスコボーイ、母の父ライジングフレーム、さらには祖母の父ダイオライト。キタノカチドキはスピード勝負を約束された血統だった。
約束はされても知らぬ間に競馬場から消えていってしまう馬が多いなか、このキタノカチドキは持てる性能を余すところなく発揮した。

新馬戦を4馬身差で楽勝したあとのデイリー杯3歳S。武邦彦騎手は手綱を持ったまま9馬身差の独走だった。並の競走馬でないことは、もうデビュー2戦目で天下に知らしめた。
オープン、阪神3歳Sも楽勝し、4歳になってからもきさらぎ賞、スプリングスSを完勝して6戦無敗で皐月賞を迎えた。
その皐月賞は中山から東京での皐月賞だったが、好位から直線楽に抜け出し皐月賞を制した。

次走の日本優駿(日本ダービー)では残念ながらコーネルランサーに勝利されキタノカチドキは不完全燃焼のまま3着と惨敗した。
このダービーの結果で距離不安説がささやかれた。

しかし、秋に入り、神戸新聞杯、京都新聞杯と勝利し本番の菊花賞を迎えた。結果は1着。圧勝だった。距離不安もなんのその・・・。

この馬の真骨頂はスピードと一瞬の切れであることに変わりはない。
菊花賞も天皇賞も傑出した闘志のたまものと解すべきだった。

最後は引退レースとなった5歳の有馬記念は3コーナーで故障しながらゴール(8着)まで走り続けた。結果は右前副腕前骨並びに種子骨骨折の診断がくだった。

武邦彦騎手曰く(2000Mまでならどんな馬にも負けない自信があった)と話したくらい中距離では天下無敵だったのであろう。
ザ・ローリング・ストーンズ
(The Rolling Stones)

stonesmein2.jpg

◆ローリング・ストーンズとの出会い◆
私が生まれて初めてローリング・ストーンズを聞いたのは、中学三年生の終わり頃でした。

その頃の私は、すっかりロックにはまっており、ロックについての本なども買って読むようになっていました。
その中の一冊を見ていた時、ビートルズと比較されていたローリング・ストーンズの記事を発見しました。
なんとなく読んでいたら、そのグループはどんな音楽をやっているのか凄く気になり、早速【レッド・イット・ブリード】というアルバムを買ってみました。
家に帰ってレコードを聴いた所、ビートルズとは全く違うサウンドが響いてきました。

『もの凄くカッコイイ』

速攻で気に入り、例のごとくストーンズの事追求したくなりほとんどのアルバムを聞きまくりました。

ファーストアルバムはほとんどがカバー曲(R&B、ブルース)で構成されていて、黒人音楽をかなり追求していたことが良くわかります。
ローリング・ストーンズとの出会いは、私にブルースという音楽も与えてくれました。

【アウト・オブ・アワー・ヘッズ】の中の作品、【サティスファクション】は、彼らを世界的なビッグ・グループに押し上げたといっても過言ではないと思います。

90年の初来日の時は(メンバー全員勢揃い)、超興奮気味!!
このチャンスを逃すまいと、コンサート(東京ドーム)に3回行ってしまった。
初日は、興奮しすぎて意識もうろう、失神寸前・・・(頭の中では未だに信じられない様子)
ノル事も忘れ必死に目で追っかけていた。
さすがに3回目の時は、皆と一緒に歌い踊りノリノリだった。
人生の中で凄く印象深い3日になった。

前回の2003年3月10日の日本武道館も勿論行って来た!
チケット代がかなりいっちゃいましたけど(オークションでゲットしたもので・・・)
武道館はまた違った雰囲気があった。
今まで幻だったわけですからねぇ~。ほんと大興奮だった。

現在でもスートーンズ様が来日してくる時は気合入れて行ってますww
現在でも彼等(ミック、キース、チャーリー、ロニー)はとても渋くカッコイイね!!! まだまだいけるぞぉ~!! 


ザ・ローリング・ストーンズ・メンバー達

青色の名前は現在のメンバー、黄色は元メンバー。
ミックジャガー(vo)
本名マイケル・フィリップ・ジャガー43年7月26日生まれ
ストーンズというバンド成立の上で重要なエピソードにチェス・レコードから直接購入した LPを抱えているミックを見つけ、幼馴染みのキースが声を掛けたという有名な話がある。
その当時はブルースやチャック・ベリーのレコードを直接アメリカから購入していた。
ミックは常に時代的な感覚をうまく取り入れて卓越したセンスを体現し続けてきた事実はもって生まれたものだった。それが今、現在でもストーンズが続いている大きな要因なのでしょう。

キース・リチャーズ(g,vo)
本名キース・リチャーズ43年12月18日生まれ
キースは今でもギター小僧達のアイドルであり、ストーンズ・サウンドの要を坦う重要な存在であり続けている。
ブライアン、ミック・テイラー、ロン・ウッドと3人とのコンビネーションでストーンズ・サウンドの核を着実に構築していった。
キースは麻薬に溺れ、一時はストーンズを危機に陥れることもあった。ストーンズが40年間第一線で活動を続けて来た事自体驚異的だが、一途でスタイルが変わらないところもキースという男のタフな一面を見る思いがする。
でも私にとっても最高なギターリストだ。

チャーリー・ワッツ(dr)
チャールズ・ロバート・ワッツ41年6月2日生まれ
10代になりたての頃からジャズ・ドラムにはまり将来はドラマーになると心に決めていたらしい。以来50年間ドラマーとしての人生をあゆんできた。物静かなドラマーでも有名。チャーリーはストーンズのドラマーでありながらストーンズのサウンドに流されることなくひたすらジャズを今も愛し続けている。

ロン・ウッド(g)
本名ロナルド・ウッド47年6月1日生まれ
ロン・ウッドは10代半ば兄とバンドを組み17歳でプロ・デビューを果たす。バーズというバンドを皮切りに、クリエイション、ジェフ・ベック・グループ、フェイシズを経て76年、ローリング・ストーンズに加入する。以来29年に渡りキースと絶妙のギター・コンビを続けている。ロン・ウッドは絵の腕前も天下一品でもある。

ビル・ワイマン(b)
本名ウィリアム・ジョージ・パークス36年10月24日生まれ
ミックとキースより7歳も年上。ベース・プレイヤーという非常に地味で、常にミックやキースの後ろに隠れている印象があった。しかしビル・ワイマンはみんなよりも離婚暦、結婚暦が多い一面があった。それとストーンズの記録係、レコードコレクター(熱心な)また「スティッキーフィンガーズ」という名のレストランを経営するなど実業家としての一面もあった。92年末、ローリング・ストーンズを脱退する。

ブライアン・ジョーンズ(g)
本名ルイス・ブライアン・ホプキン=ジョーンズ42年2月28日生まれ

10代の頃から破天荒な生活をしてきたが、幼少時から音楽教育を受ける。ブライアンは音楽的才能に恵まれており初期のストーンズにおいてはリーダーだった。ミックやキースが次々とヒット曲を書くようになって精神的に追い込まれていく。ブライアンは麻薬にてを染めていき溺れていく。最終的にブライアンは自分がリーダーだったストーンズから追い出されることになる。69年6月のこと、そしてこの1ヵ月後の7月3日未明、ブライアンは自宅のプールで溺死体となって発見された。享年27歳。未だ彼のファンは多い。

ミック・テイラー(g)
本名マイケル・ケヴィン・テイラー48年1月17日生まれ
17歳でジョン・メイオール・ブルースブレイカーズのギタリストとしてデビュー。ストーンズには5年しか在籍いたが74年に脱退した。ストーンズの歴史は浅いが、一時代を築いたギターリスト。

◆お気に入りアルバム
レット・イット・ブリード      スティッキー・フィンガーズ
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エミリオ・ブトラゲーニョ
(Emilio Butragueno Santos 1963-)

butragueno.jpg



フルネームエミリオ・ブトラゲーニョ・サントス
Emilio Butragueno Santos
ニックネームエル・ブイトレ(禿鷲)
国籍 
生年月日19年月日
出身地マドリード
ポジションFW(CF,ST)
身長170cm
体重68kg
代表デビュー1984年10月17日(通算69試合,26得点)
所属クラブ1975-82: レアル・マドリード
1982-84: CFカステーリャ
1984-95: レアル・マドリード
1995-98: セラヤ(メキシコ)
主なタイトル1984-85: UEFAカップ
1985-86: UEFAカップ
個人タイトル


1963年7月22日生まれ。
1980年代に、名門レアル・マドリードとスペイン代表を支えたストライカー。俊敏で抜け目がなく、ゴールを狙う鋭い視線と動きから『エル・ブイトレ(禿鷲)』の異名で知られた。

同年代のDFサンチース、MFミッチェル、マルティン・バスケスらとレアルの一時代を築き、85-86シーズンから89-90シーズンまでのスペイン・リーグ5連覇と、85年、86年のUEFAカップ連覇に大きな役割を果たした。
素早いドリブル、スペースへの動きでチャンスメークにも優れていた為、レアルでは2トップを組んだ」メキシコ人のウーゴ・サンチェスに得点王の座を譲ってきたが、サンチェスの力が衰えた90-91シーズンには、初めて得点王も獲得した。

84年からスペイン代表入りし、86年メキシコ・ワールドカップでは、決勝トーナメント1回戦のデンマーク戦で、1人で4ゴールをあげるなど活躍。ベスト8進出の立役者となり、5得点で得点王争いも2位につけ。
また、この年の年末には、欧州年間最優秀選手の投票でもソ連のベラノフに次ぎ、2位の得票を集めた。90年イタリア大会にはキャプテンとして出場したが、今度はベスト16での敗退となった。代表では69試合に出場し、26ゴールの記録を残した。
ルードウィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
(Ludwig van Beethoven 1770-1827)




ペンを握った肖像画や、石こう作りのデス・マスクでご存知の人も多いと思うが、ベートーヴェンはどんぐりまなこで骨ばったゴツイ顔、ぼさぼさ頭でお世辞にも美男子とは言えないほどだった。

その上色黒く背は低く、首短く背を丸めて歩くため、少年の頃はスペイン人、ハイドンからは「蒙古大王」というあだ名をつけられた。

16歳でやさしい母を失い、飲んだ暮れの乳で少年の頃から苦労してきたベートーヴェンがウィーンに出てきたのは22歳の時であったそうな。

その前にモーツァルトに師事しようとして果さず、以来特にすばらしい先生に恵まれたと言えない彼がまず門を叩いたのは老ハイドンであった。
ハイドンは忙しくてあまり教えてくれなかったが、元来努力型の彼は自力でこの都会から音楽上のこと、社会的なことなどを勉強してゆく。
ベートーヴェンも始めはピアニストとして出発したため初期はピアノ作品が多いが、今日よく聞かれる作品中一番若い頃の作は「ピアノ・ソナタ悲愴」である。ここは既にベートーヴェン独自の、創造する情熱のスパークが青春の甘い涙と共にみられるのである。ピアノ・ソナタと言えばもう一つ「月光ソナタ」を思い出されるだろうけどこれはジュリエッタ・グイチャルディ嬢に捧げられた。

ところでベートーヴェンに恋人がいたというのは死後発見されたラヴ・レターからも確かだが、その中で”不滅の愛人”と呼んでいるのは誰だかわからない。一説にはこのグイチャryディだとし、一説には一時婚約までしたテレーゼ・ブランシュヴィックという女性であると言われるが、結局どちらにしても破恋に終わりベートーヴェンは独身を通すことになる。あの有名な「エリーゼのために」も本来は”テレーゼの為に”が正しく、エリーゼになったのは出版の際手落ちだったと言う人もいるそうな。

ベートーヴェンはピアニストとしても作曲家としても次第に名を売り、洋々たる将来が約束されたかたに見えた。ところが音楽家として致命的な悪性な耳の病が起こって遺書を書くところまで追い詰める。
これが有名なハイリゲンシュタットでの遺書であるが、これも死後発見されたもので、ベートーヴェンが本当に自殺するつもりで書いたかどうかは疑わしいという説を立てる人もいる。
とにかく彼は死ななかった。むしろウィーンに帰ったベートーヴェンは初めて自分だけの作品発表会を開くのをきかっけに一回り大きく、たくましく、充実したいわゆる中期の作品を相次いで生み出すことになる。
「ヴァイオリン・ソナタ クロイツェル」「交響曲第三番 英雄」「ピアノ・ソナタ ワルトシュタイン」、後にフィデリオと改題した彼唯一のオペラ「レオノーレ」・・・。

このうち「英雄」はちょうど熟したヒナが自ら殻を破るように、内的なものがふくらみそれ迄の交響曲の懸念を破った画期的な曲でナポレオンに捧げるつもりだったが彼の皇帝就任を聞いて「あの男も結局自分の野心をみたした俗人だった」と、表紙を破り捨てたという話はベートーヴェンの民主的な考えを表す逸話として有名である。

こうした作品を序奏のロマン・ロランが”傑作の森”と評した実り多い時代を迎えるが、そこにはラズモフスキー公爵に捧げた作品59の一番から三番の「弦楽四重奏曲」「ヴァイオリン協奏曲」「交響曲第五番」「交響曲第六番 田園」「ピアノ・ソナタ 情熱」「ピアノ協奏曲第五番 皇帝」といった現在でも最もよく聞かれる曲がひしめき合っている。
その中で「田園」は彼自身でつけた題名、一方「第五交響曲」の方は最初のタタタターという音を指してベートーヴェンが「運命はこのようにして扉を叩くのだよ」と言ったため俗に「運命」と言われているがこの呼び名は実は日本だけで外国では単に「交響曲第五番」といわれるだけである。

その後も作曲の筆は進み・・・ワーグナーが後に”舞踏の聖化”と呼んだ「交響曲第七番」、彼の一番短い交響曲「交響曲第八番」などが完成する。
しかし・・ベートーヴェンの耳はますます悪化し、48歳頃からほとんど聞こえず、日常会話も首からぶら下げた筆談帳で交わす状態になる。
しかし後見を買って出た甥カールの世話が手にあまり晩年の生活は雑事と貧困との戦いとなるが作風も中期の力んだ激しさ人間臭さに代わってもっと簡潔で瞑想的な深さを見せ始めた。

後期の「弦楽四重奏曲」はその代表的なものであるが、大作では「荘厳ミサ」に続いて、シラーの詩”歓喜に寄す”を加えた不滅の名作「交響曲第九番 合唱」がつに大きな姿を現すことになる。
ベートーヴェンは散歩と酒が好きだった。ウィーンの森やハイリゲンシュタットの田園を散策しながら、随分溢れる曲想を頭に描いたことだろう。
しかし、死の前年弟ヨハンを訪れたのを最後に、肺炎と黄だんを併発、それから四ヶ月後に巨匠はこの世を去った。

ベートーヴェンは貧苦の中に生涯を終えたといってもさすがその死は大きな波紋を投げ葬儀の日はウィーンの学校も休みとなり二万人の大群衆がその死を慎んだという。

彼は物凄い悠然としたスケールの大きい傑作を沢山残した。

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