趣味の事(サッカー、競馬、音楽、映画 etc...)や その日の出来事や、気になったことを書いています。気まぐれなんですけどね^^

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カブラヤオー
Kaburaya O

kaburayao1.jpg


馬名カブラヤオー
Kaburaya O
勝負服kaburaya-o-uni.gif
ファラモンド
カブラヤ
生誕1972年6月13日
死没2003年8月9日
性別
毛色黒鹿毛
生産北海道新冠町
十勝育成牧場
生国japan-fs.gif
馬主加藤よし子
調教師森末之助(東京)
生涯成績13戦11勝  [11-1-0-1]
獲得賞金179,587,300円
主な勝ち鞍皐月賞、日本ダービー、弥生賞、NHK杯など他多数
主な受賞1975年:年度代表馬
1975年:最優秀4歳牡馬



ファラモンド
黒鹿毛 (1957)
SicamblePrince Bio
Sif
RainFair Trial
Monsoon
カブラヤ
黒鹿毛 (1965)
ダラノーアSunny Boy
Danira
ミスナンバイチバンハロウェー
スタイルパッチ


現在、「史上最高の逃げ馬は?」と聞かれたらサイレンススズカ
と答える人が多いらしい。
「史上最強の逃げ馬は?」といわれたら真っ先に思い浮かぶ名前が「カブラヤオー」が出てくるくらい素晴らしい名馬だったに違いない。

昔の話(昭和50年)になるけどスズカと同じ逃げ馬がいた。それが「カブラヤオー」。
クラシックの2冠、皐月賞、日本ダービーを逃げ切り優勝した。
ただ単に逃げ切っただけではない。
皐月賞の前半の1000メートルの通過タイムは58秒9。
日本ダービーで更にペースアップし58秒6という短距離レース並みのラップを刻んだ上にそのまま逃げ切ってしまったことから逃げ馬と限定しなくても最強馬として名前が挙がるらしい。

血統配合も超一流ではなく3歳の時にオーナーが300万円で売りに出ても、買い手がいなかったというエピソードがあるくらい最初は期待されてなかった。

その期待されていなかったカブラヤオーだけど蓋を開けてみれば・・・デビュー戦は2着に甘んじたが、その後は連戦連勝で、それも後続馬を全く寄せ付けない逃げ切り。

クラシックの皐月賞、ダービーを勝利して三冠も期待されたが、残念な事に屈腱炎になり菊は幻に終わった・・・。

菅原泰夫騎手が馬が引退してからこう告白している。
「臆病な馬だからレースでは逃げるしかなかった。」
と・・・。逃げ馬の致命傷は惨敗するか逃げ残るかのどちらかなだけに騎手にとっては物凄くプレッシャーだったのではないだろうか。
その後は、同じ脚質で同じ、2冠を奪取したミホノブルボンがいる。
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今日は隅田川の花火を見に行ってきた。
後輩S君んとこの実家の屋上を陣取って最適な場所で見た!!
屋上で見ると風も吹いてくるしとても爽快な気分になった。




花火をずっと見ていたが・・・。
気になった事が・・・風のせいなのか分からんが・・・。
花火と音が少しずれてて変な感触だったなぁ~。

それと・・・方角によっては花火の煙で見えない箇所もあり
少し残念な気がした・・・。フィナーレも前回と違って何だか・・・ショボイ感じがしたような・・・。

しかし・・・夏の風物詩でもある花火は1年に1度は見なきゃ夏を過ごせない感じがするww

毎年、こんな感じで花火を見られるのが幸せ~に思えてきた。



ウォルガング・アマデウス・モーツァルト
(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)

mozart.jpg


モーツァルトの生涯はたった35年間だったが、6歳からすでにクラウザン(ピアノの前身)の神童として演奏旅行に忙しかったから、音楽生活は役30年間あった。そのうちはじめの10年間はミュンヘンを皮切りに、ウィーン、ロンドン、パリ、ナポリなど計9回の旅行で費された。この頃のモーツァルトは父レオポルドと共に故郷ザルツブルグに腰を落ち着ける間もなく、旅で演奏し、作曲し、病気し、そして成長したのであった。少年モーツァルトの天才ぶりを伝える逸話は多い。
ウィーでは皇帝から「指1本で弾いたり、鍵盤に布をかぶせて弾いたら大したものだ」と冗談を言われ、その通りに演奏し、ナポリでは何とはめていた指輪に魔力があるに違いないと疑われ、指輪を外して演奏せねばならなかったという。
こうしてヨーロッパを歩き回ったモーツァルトも、16歳でザルツブルグ宮廷楽団に正式につかえるのを機に故郷を中心に活動することが多く、作曲に専念し始めるが、この頃の作品で今親しまれてるのは「ヴァイオリン協奏曲」、特に華美なフランス・スタイルでかかれた「第三番」「第四番」
それにトルコ風と呼ばれる「第五番」だろう。
21歳~23歳にかけてはパリ、マンハムへの旅、その旅先での母の死、しかも失恋と波乱の多い年となった。その上名演奏も少年だからこそ軽業的見世物にもなったが、20歳を越せばもう”いくらうまくても当たり前”と以前ほど受けず、モーツァルトも初めて冷たい世間の風に当たった時期でもあった。
2曲の「フルート協奏曲」「フルートとハープの為の協奏曲」終楽章のトルコ行進曲で有名な「ピアノ・ソナタ K331」などがこの頃作品。

26歳の時に父の反対を押し切り失恋相手の妹コンスタンツェと結婚した。音楽史上ハイドンとモーツァルトの妻は悪妻というのが通り相場だが、性質はむしろ善良で単純だった。しかし建設的能力に欠け、内助の功は持ち合わせず、このため亭主はいろいろ苦労することになるが、とにかくこれを機にウィーンに定住して創作に精を出すのである。
「交響曲第36番 リンツ」「交響曲第38番 プラーハ」「ピアノ協奏曲 K466」「ピアノ協奏曲 K488」「ピアノ協奏曲 K491」、オペラ「フィガロの結婚」などの傑作は以後30歳までの間に生まれた。

続いてオペラ「ドン・ジョバンニ」がプラーハで大当たりしたが、この序曲は初演前夜妻に面白い話をさせて眠気をさましながら一夜で書いたという有名なエピソードを持っている。大当たりを取ったといっても計画的な生活と金儲けを知らないモーツァルト家は一向に楽にならない。有名なアイネ・クライネ・ナハト・ムジークの題を持つ「弦楽セレナーデ」「ピアノ協奏曲 戴冠式」そしてさん然と輝く彼の三大交響曲「第39番」「第40番」「第41番 ジュピター」が、たったの二ヶ月で書き上げられたのもこの頃だ。

モーツァルトの晩年は収入をあげようとして歩き回り歩き回っては損をし、損をしては借金を増やすという悪循環で、その上目にみえて健康が衰え、妻もまた秒意という不遇さだった。
35歳の時、つまり死の年モーツァルトは名作「魔笛」を書いてるところへ名を伏せた男から「レクイエム」の作曲依頼を受ける。彼はこれを自分の為の鎮魂曲であると信じて筆を進めるが、ついに力尽きて未完のままこの世を去った。

モーツァルトの作品の中には駄作が少ない作曲家であった。
カツラギエース
Katsuragi Ace

katsuragi-ace.jpg


馬名カツラギエース
Katsuragi Ace
勝負服umakatsuragi.gif
ボイズィーボーイ
タニノベンチャ
生誕1980年4月24日
死没2000年7月3日
性別
毛色鹿毛
生産片山専太郎牧場
生国japan-fs.gif
馬主野出一三・野出長一
調教師土門一美(栗東)
生涯成績22戦10勝  [10-4-1-7]
獲得賞金4億1068万3400円
主な勝ち鞍ジャパンC、宝塚記念、NHK杯、京都新聞杯、大阪杯など他多数
主な受賞1984年:最優秀5歳以上牡馬 



ボイズィーボーイ
鹿毛 (1965)
King's TroopPrincely Gift
Equiria
Rising HopeThe Phoenix
Admirable
タニノベンチャ
黒鹿毛 (1971)
ヴェンチアRelic
Rose O'Lynn
アベイブリッジEntente Cordiale
British Railways


カツラギエース!そうあのJCを逃げ切って勝利したカツラギエースだ! あのジャパンカップを日本の馬が初めて制したレースだ!

日本の馬は三冠馬二頭がいた4番人気シンボリルドルフ、1番人気、ミスターシービーだ。
勿論、このレースの見所は三冠馬の2頭の初対決がファンの最大の関心事であって2頭のどちらかが日本馬として初めてジャパンカップに勝つだろうと信じて疑わなかった。
ところが、日本の馬は確かに優勝を果たしたが・・・ミスターシービでもなくシンボリルドルフでもなく勝ったのはなんと・・・10番人気のカツラギエースだった。場内はどよめいた・・・。
まさか・・・逃げ切ってカツラギエースが優勝するなど・・・誰も予想だにしなかったのだろう。

2頭の3冠馬の前評判を聞いていた外国馬の騎手はただ1頭で飛ばす日本馬をペースメーカーのように見ていた。
西浦騎手は手綱名を緩めて馬の行く気に任せた。このレースで初めてメンコを着けたカツラギエースも気分良く逃げて、最後は2番人気イギリスの馬、「ベッドタイム」を1馬身半抑えてのゴール。
西浦騎手の騎乗が見事なまでに的中したのであった。

前回の宝塚記念の勝利も、毎日王冠で、シービーを抑えて勝利したのもだてではなかった事を証明して見せた。
やはりエースは5歳になって大きな成長を成し遂げた。
JC後の有馬記念(結果は2着)を最後に引退する。
ザ・ビートルズ
(The Beatles)



◆ザ・ビートルズとの出会い◆
私が初めてビートルズに触れたのは私のホームページのメニューのMUSICのところに書いてる音楽との出会いというところで書きましたが、小学5年生の時生まれて初めてラジカセを買ってもらった事が私とビートルズとの出会いです。

最初はほんとどの曲を聞いてもどこかで聞いたことあるなぁ~って感じでとても入りやすかった。曲は「プリーズ・プリーズ・ミー」。
今もあのときの感触は忘れられません。ビートルズがきっかけで洋楽をも聴くようにもなりました。

後はもう説明しないでもビートルズの事はお分かりでしょう。彼らは7年間という月日だけで13枚のアルバムを作り、その1つ1つどれも素晴らしい宝石箱みたいな芸術です。どれがいいとか選ぶのも苦労するくらいです。未だにベスト盤などがでても凄い売れ行きでほんと音楽家の鏡ではないでしょうか。出来ることなら生のビートルズを見てみたかったです。

ザ・ビートルズ・メンバー

ジョン・レノン
本名ジョン・ウィンストン・レノン40年10月9日生まれ
外国航路の船員フレッド・レノンと妻ジュリアの長男として誕生。ジョンの生後18ヶ月で両親は離婚してジョンはジュリアの姉メアリ・エリザベス・スミスと酪農場を営む夫ジョージのもとに引き取られて育つ。母ジュリアは1958年、交通事故で死亡した。1956年にジョンとポールは出会いポールがジョンが既にいたバンドクォリーメンのメンバーになる。後にジョージ・ハリスンも加わる。そのクォリーメンからムーンドッグス、シルバー・ビートルズ、ここでリンゴが加わり、ザ・ビートルズが誕生した。ビートルズでの活躍はギターとボーカルをしていた。次々、名アルバムを解散するまで残した。その後は妻オノヨーコとつれそいバンドをしたりソロアルバムを作りました。1980年12月8日アメリカニューヨークにある自宅のアパート『ダコタハウス』の前で熱狂的なファン(マーク・チャップマン)に銃撃されて死亡した。享年40歳。

ポール・マッカートニー
本名ジェイムズ・ポール・マッカートニー42年6月18日生まれ
元ジャズ・バンドのリーダーをしていたセールスマンのジェイムズ・マッカートニーと看護婦の妻メアリの長男として生まれる。1956年7月6日にすでにバンド活動をしていた15歳のジョン・レノンが演奏していた、このクォリィメンの演奏を1人だけでギターをやっていた14歳のポールが見た、1週間後ジョンはポールにバンドに入らないかと声をかけた。それからジョンとポールの歴史が始まる。ビートルズの曲はほとんどポールが作曲している。メロディーが物凄く素晴らしい、俗に言う(メロディーメーカー)彼はビートルズには欠かせない存在であった。ビートルズ解散後も『ウィングス』(自信のバンド)でも大活躍した。その後はソロ活動をする。

ジョージ・ハリスン
本名ジョージ・ハリスン43年2月25日生まれ
リヴァプールの市のバスの運転手ハロルド・ハリスンと妻ルイーズの間に4人兄妹の末っ子として生まれた。母ルイーズはジョージが参加するバンドには理解を示していた。同じ中学校の1つ上の先輩ポールとバスの中で知り合い意気投合した。後にジョンとポールが在籍していた『クォリィメン』に加入する。彼はどちらかというとジョンとポールと比べれば控えめな印象だったがジョージが作った曲はどことなく哀愁を漂わせていた。彼もまたビートルズには必要不可欠だった。解散後はソロとして活動。エリック・クラプトンとは親友の仲でもあった。残念ながら2001年11月29日に病死した。

リンゴ・スター
本名リチャード・スターキー二世40年7月7日生まれ
パン職人のリチャード・スターキーと妻エルシーの長男として生まれるリヴァプール波止場わきのスラム街で育つ。リンゴが3歳の時父親が家出、母親がホステスをして幼いリンゴを育てる。ビートルズのオリジナル・ドラマーは、ピート・ベストでしたが、ピート・ベストは解雇されて新しいドラマー、リンゴ・スターが加入したのです。解散後は俳優なども勤める。

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン
(Franz Joseph Haydn 1732-1809)


ベートーヴェンはハイドンの死後、この先輩の生家の絵を一生飾っていたというが、そのえは大変粗末なわらぶき屋根の田舎家だった。父は東大工で母は料理番上がりだったが、その屋根の下は、夜になると皆で歌や楽器を楽しむなかなかなごやかな家庭であった。中でも長男のハイドンは声がずば抜けてよかったので、8歳の時はもうウィーンの聖シュテファン教会の合唱団で歌うことが出来た。しかしその後は悪戦苦闘の連続、流しをしたり、巡礼に飛び入りしたり劇音楽を書いたり、やっと落ち着いたのは29歳の時、エステルハーツィ候に雇われてからである。
ハイドンは以後、白の靴下、白のリンネル、かつらをつけ白粉をつけるというこの邸の正装で30年を過ごすことになる。
君主には忠実で、団員たちからは、『パパ・ハイドン』と親しまれたこの邸での生活は、よく知られている。
午前中は練習、午後からは宮廷のための演奏や祝祭そのほか行事の音楽、夜は夜で食事のBGMや特別音楽会。
当時の貴族とはいい気なものであるが、ハイドンはこの主人に1度作品で無言の抗議をしたことがある。
エステルハーツィ候は毎夏楽団を連れ避暑に行く習慣だったが、ある年その期間を二ヶ月も延長しようと言い出したのだった。
楽員たちは早く休暇をとって帰りたい、そこでハイドンは幾智にとむ新曲を書いて候の前で演奏した。この曲は現在「交響曲第45番 告別」として知られている。

この宮廷でのハイドンの作品は膨大な数になるが、現在よく演奏される曲には「告別交響曲」の他、「チェロ協奏曲 二長調」「チェムバロ協奏曲二長調」また弦楽四重奏ではギターを模したピチカートに乗ってヴァイオリンが優しく歌う作品三の五「セレナーデ」や始めの主題がひばりのさえずりに似て爽快な作品64の5「ひばり」などがある。

長いようであり短い30年はまたたく間に過ぎた。1970年エステルハーツィ候は世を去り、ハイドンはまた自由の身となる。その彼を待っていたのはロンドンでの演奏会の話だった。この話にはモーツァルトが「パパ、あなたは広い世間をご存じない」と見知らぬ国への旅を反対したという話が伝わっているが、その心配をよそに演奏会は大成功で、1年半の後再びロンドンを訪れている。この二度にわたるイギリス旅行はハイドンにかなりの収入ばかりでなく、作品上でも素晴らしい収穫をもたらした。
俗にザロモン・セットと言われる十二の交響曲がそれである。この中には静かな第二楽章の中途で急にびっくりするような強奏が現れる「第九十四番 驚愕」演奏会でシャンデリアが落ちたのに誰一人重傷も負わなかったため【奇蹟】と名づけられた「第九十六番」曲中に、軍隊風の信号がトランペットで吹かれる「第100番 軍隊」時計のチクタク音を思わせるリズムを使った「第101番 時計」といった有名な曲を含むが、いずれも充実し
自由の身となったハイドン老のハッスルしたさまが良く分かる。

ハイドンの晩年は再びエステルハーツィ家で楽団を再建したり、オラトリオ「天地創造」や「四季」といった大曲を仕上げたり器楽では「トランペット協奏曲」のような名作も生んだが、「もうこの世では役立たない、神のお召しを子供のように待つばかり」というのを口癖に、皇帝賛歌を毎日ピアノで弾きながら77歳でこの世を去った。
オグリキャップ
Oguri Cap




馬名オグリキャップ
Oguri Cap
勝負服umaoguri.gif
ダンシングキャップ
ホワイトナルビー
生誕1985年3月27日
死没
性別
毛色芦毛
生産稲葉不奈男
生国japan-fs.gif
馬主小栗孝一/佐橋五十雄/近藤俊典
調教師鷲見昌男(笠松)/瀬戸口勉(栗東)
生涯成績32戦22勝  [22-6-1-3]
獲得賞金9億1251万2000円
主な勝ち鞍有馬記念2回、マイルCS、安田記念、毎日王冠、高松宮杯など他多数
主な受賞1988年選:顕彰馬
1988年:最優秀4歳馬
1989年:特別賞
1990年:年度代表馬
1990年:最優秀5歳以上牡馬 

ダンシングキャップ
芦毛 (1968)
Native DancerPolynesian
Geisha
Merry MadcapGray Sovereign
Croft Lady
ホワイトナルビー
芦毛 (1974)
シルバーシャークBuisson Ardent
Palsaka
ネヴァーナルビーネヴァービート
シュリリー


オグリキャップ!
それは今も私には忘れられない名馬でした。
ハイセイコー以来の地方からのアイドルスーパーホース。
私が初めてオグリを見たのは88年のNZT4歳Sだった。
地方から凄い馬が中央に来た情報は知っていた、中央入りしてから重賞レースを3連勝なんて凄い!

私はNZT4歳Sをこの目で見ようと府中まで足を運んだ。
初めて見たときは体が銀色に輝いていた。
レースはオグリだけが群を抜いていて他馬を子供扱いで圧勝!
凄かった脳裏に今も残っている。
その後も連勝を飾るが、天皇賞で後にオグリのライバル、タマモクロスとの初対決。結果はタマモの2着で終わったが、年末の有馬記念でタマモに先着して、その年最後の勝利を飾った。


翌年から私がかつて好きだった、南井騎手が手綱をとった、その南井騎手との名ドラマはバンブメモリーとの死闘を繰り広げたマイルCSだ。
直線では誰もがバンブーが勝利すると思ったその瞬間オグリが突き抜けてくる、ゴール前のデットヒート、バンブーかオグリか!結果はオグリがハナ差で勝利した!南井騎手が涙を流した。
その時の感動は今も焼きついている。

その後はスランプや体調などの不安でオグリらしさがなかったが、オグリの引退のレース、有馬記念でも有終の美を飾った。
まさにオグリは昭和を代表する名馬になった。
ジェフ・ベック
(Jeff Beck  1944-)


本名ジェフリー・アーノルド・ベック 
1944年6月24日イギリスサリー州ウォリントン生まれ。ウォリントンはロンドンからも近い、穏やかな住宅地域で、商売をする人が多く住むいわゆる中流階級の人が多く住んでいるとこでもある。ジェフの家は地道に商売を営む父とごく普通の母である長男として生まれた。

1964年にエリック・クラプトンの後任としてヤードバーズに参加。フィードバック奏法を開発し、エキセントリックなギタープレイで注目される。66年にヤードバーズを脱退、翌年にロッド・スチュアート、ロン・ウッド、ニッキー・ホプキンスらを率いて、ジェフ・ベックグループを結成し、「トゥルース」(68年)、「ベック・オラ」(69年)の2枚のアルバムを発表、より独創的なブルース・ロックの世界を展開する。

解散後、再活動しようと思った矢先、交通事故に遭い約2年間の活動停止を余儀なくされる。 71年にコージー・パウエル、マックス・ミドルトンらによる第2期ジェフ・ベックグループを率いて見事にカムバックし 2枚のアルバムをリリース後、73年には、元バニラ・ファッジのカーマイン・アピス、ティム・ボガードと最強のロック・トリオといわれたベック、ボガード&アピスを結成するが1枚のアルバムを残すのみで解散。

75年以降はソロ活動に入り「ブロウ・バイ・ブロウ」、「ワイヤード」などのインストゥルメンタル・アルバムを発表して新境地を開いた。この頃はスタンリー・クラーク、ヤン・ハマーらとのコラボレイションが多かった。その後ナイル・ロジャースのプロデュースによるポップなアルバム「フラッシュ」を発表するが、89年にはテリー・ポジオ、トニー・ハイマスとトリオを組み再びインストゥルメンタル・アルバム「ギター・ワーク・ショップ」を発表する。

その後は「クレイジー・レッグス」、「WHO ELSE!」など世界のギタリストとしての健在ぶりをみせている。

お気に入りアルバム


「ブロウバイブロウ」
ジミー・ペイジ
(jimmy page  1944年-)

jimmypagemein.jpg

本名ジェイムズ・パトリック・ペイジは1944年1月9日、イギリスのミドリセックスで生まれた。日本では「レッド・ツェッペリン」以降その評価は高まったわけだが、本国イギリスでは「ヤードバーズ」のメンバーとしてはもちろん、それ以前からスタジオ・ミュージシャン歴が長く、かなり名前を知られた存在であったようだ。

16歳の頃、すでにスタジオでプレイしていたというから、まさに天才ギタリスト。当時のスタジオ・ワークでは「キンクス」の『ユー・リアリー・ガット・ミー』が有名だ。

「ヤードバーズ」には66年にベーシストとして参加し、その後ギターに変わってからはジェフ・ベックとのツイン・リードという最強のラインアップになり、当時のライヴは未だに語り草になっている。
ベック脱退後は事実上のイニシアティヴをとるリーダー的な存在として活動を続けるが、68年に「ヤードバーズ」は解散、その直後に「レッド・ツェッペリン」を結成、69年に発表された『レッド・ツェッペリンⅠ』で衝撃的なデビューを飾って以来、ハード・ロックの帝王として、解散する80年までロック・シーンの頂点に君臨するのである。

解散後は沈黙を守っていたが、85年にポール・ロジャースと共に「ファーム」を結成して再び活動を開始した。さて、そのギター・ワークの特徴だが、何といってもリフ作りのうまさがあげられるだろう。デビュー・アルバムの「グッド・タイムズ・バッド・タイムズ」をはじめ、どのアルバムにも印象的なリフを持った曲があるなど、プレイヤーとしてだけではなく、メロディ・メイカーとしてのセンスは見逃せない。
フレージングにもそうしたセンスが光り、長いフレーズよりも、むしろ短いフレーズにその持ち味が発揮されているようだ。

「胸いっぱいの愛を」の途中のブレイク・ソロは、その良い例だろう。それと、「天国への階段」に代表される、ドラマティックな構成の中でギター・ソロを印象的なものにする構成力も特筆できるのではないだろうか。

『フィジカル・グラフティ』以降、そのサウンドは変化を見せはじめるが、創造力に溢れたギター・ワークは相変わらず冴え渡り、ハード・ロック・ギタリストというカテゴリーの中だけでは語れない充実したプレイを聴かせている。
ライヴではヴァイオリンの弓を使うなど、トリッキーな面も見せたが、プレイ自体はロックンロール、ブルースをベースにした比較的オーソドックスなものだ。しかし、インド音楽をはじめとする様々なエッセンスを巧みに取り入れるあたりのフレキシブルさ、アイデア豊なフレージングは、やはりスーパー・ギタリストの風格を感じさせている。
使用ギターは『レッド・ツェッペリンⅠ』では、ベックからプレゼントされたテレキャスターだが、セカンド・アルバム以降はレウポール・スタンダードに変わり、以後それがトレード・マークになっている。

一時のオールド・レスポール・ブームの火付け役といってもいいだろう。ライヴで「天国への階段」をプレイする時に使っていたギブソン・ダブルネックもジミー・ペイジのギター・コレクションの中では欠かせない。

ジェフ・ベック、エリック・クラプトンと並ぶBIG3として、常にギター・キッズの熱い視線を浴びてきたわけだが、ジミー・ペイジというと、すでに解散してしまったにも関わらず、やはり「レッド・ツェッペリン」の名前が頭に浮かんでしまう。それだけビッグなグループであり、その中心的なメンバーであったジミー・ペイジの存在は、ひとつの頂点を極めたギタリストとして、ロック史上の中で語り継がれていくだろう。

 お気に入りアルバム
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エリック・クラプトン
(Eric Clapton  1945-)
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本名 エリック・パトリック・クラプトン
1945年3月30日イギリス・サリー州リプルー生まれ。

1963年10月、ヤードバーズのマネージャーだったジョルジオ・ゴメルスキーとの正式な契約書に、祖母立会いの元でサインして以来、本格的なプロ・ミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせた。

63年にヤードバーズに参加、65年にはジョン・メイオールのブルース・ブレイカーズに参加し、人気ギタリストの地位を確立する。
当時その華麗なテクニックは「スローハンド」とういう異名をとった。
またB.B.キングらの影響を受けたブルーズ・ギターは、イギリスの白人ギタリストの中で「クラプトン・イズ・ゴッド」の評価も得た。
66年にジャック・ブルース(B)、ジンジャー・ベイカー(Dr)とともに伝説のロック・トリオ、『クリーム』を結成し、インプロヴィゼイション・テクニックを取り入れた大胆な演奏スタイルで一大センセーションを巻き起こし、アメリカでも高い人気を獲得した。

クリーム解散後は、元トラフィックのスティーヴ・ウィンウッドらとともにブラインド・フェイスを結成するが短命に終わる。
70年代に入るとアメリカ南部地方のロック・サウンドに傾倒し、デラニー&ボニーを経てデレク&ドミノスを結成、ロック史に残る名盤「いとしのレイラ」を発表するが、ヘロイン中毒が悪化し、一時活動を休止さぜるを得なくなる。

74年にソロ・アルバム「461オーシャン・ブルーバード」で見事カムバックし、以後円熟したギター・ワークスとハスキーなボーカルで人気を集め、現在でも人気・実力ともにロック・シーンのトップに位置している。ロック史上かかせないギタリストの一人。

  お気に入りのアルバム

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ヨハン・セバスチャン・バッハ
(Johann Sebastian Bach 1685-1750)
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中部ドイツのバッハ家は、二百年に渡り50人もの音楽家を生み出した音楽一族だった。ヨハン・セバスチャン・バッハは1685年アイゼナッハ生まれ、幼い頃の事はあまりわかってはいないけど、パッヘルベルとかブックステフーデなど当時の有名作曲家の作品を月明かりの下でコピーした程音楽に熱心な子だったそうな。
バッハの一生は普通の3つの時期に分けて考えられてる。
最初は23歳の時ワーマール領主エルンストの宮廷楽師としてつかえ9年を過ごしたワーマール時代、次はケーテンの宮廷楽長を6年務めたケーテン時代、最後は38歳から世を去るまで聖トマス教会の合唱長の職にあったライプチッヒ時代。

ワーマール時代は宮廷礼拝堂のオルガニストも兼ねていたため、彼のオルガン曲の大半がここで作曲されたが、当時バッハが既に腕の立つオルガン弾きだったかを知る有名な逸話がある。
彼が丁度ドレスデンを訪れた時たまたまフランスの名オルガニスト、マルシャンが滞在中だった。人々は2人を競演させる計画を立てたが、いよいよ当日バッハが会場に行ってみるとマルシャンはその早朝町を立ち去ったそうだ。
人々はマルシャンがバッハの腕に恐れをなして逃げ出したのだと解釈したらしい。これでバッハの名声は高まった。

この年バッハはケーテンに転職する。ケーテンでの才一は素晴らしかった。領主は音楽好きで宮廷楽団は優秀、給料も良かった。ここでは彼の器楽曲のほとんどが生まれたが、悲しい事件も起こっている。それは妻マリア・バルバラの急死であった。バッハは若い頃聖歌隊のならず者と大立ち回りを演じたりワイマールをやめる時は辞職を認められず反抗したバッハは遂に不服従剤で牢にぶち込まれる。

しかし過程ではよい夫であり、マリア・バルバラとの間に7人、次のマグダレーナとの間に13人もの子供をもうけるという愛妻家で音楽の父バッハはまた30人という子供達の父でもあった。

最後のライプチッヒ時代はバッハの一生で最も長く、オラトチオ、ミサ曲、受難曲など宗教的なさんぜんたる大曲が生まれた。
しかし残念ながら失明、卒中の苦しみを味わいつつ65歳の生活を終えた。

バッハの作品で最も親しみやすいのは6曲からなる「ブランデンブルグ協奏曲」だ。この曲はブランデンブルグのルードヴィッヒ伯に捧げられたためにこの名がある。中でも4番、5番が楽しい。協奏曲ではこの他「ヴァイオリン協奏曲第二番」がイタリア風な華麗さで「二つのヴァイオリンの為の協奏曲」は第二楽章の天国的な美しさで親しまれている。管弦楽曲では第三番が最も有名な「G線上のアリア」の原曲を含むことで有名である。
オルガン曲では「トッカータとフーガニ短調」が素晴らしい。
今日は中野チャンプルーフェスタに行って来た!
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中野駅から近いところにあるサンモール~ブロードウェイで行われた。
中野チャンプルーフェスタとは・・・中野と沖縄、若者と大人、文化と遊び、昔と今、等々、全部一つの鍋に入れてチャンプルー(いため合わせて美味しくする)という意味らしい(謎ww

簡単に言うと中野で沖縄の唄や太鼓や食べ物を楽しめるイベントということである。

サンモール商店街~ブロードウェイ商店街の端から端まで次々にエイサー隊がパフォーマンスする!周りは興味ある人からうるさくてブツブツ文句を言ってる人、色々だが・・・。興味のない人たちにとっては物凄く邪魔に感じたみたいだww
通行妨害だと思ってる人たちもいたであろう・・・でも好きな人はたくさんいるんだなぁ~って思った。
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見た感想としては、こんな暑い日におつかれさんって感じでした。
とてもカッコよかったなぁ^^
自分は暑くてばててしまってたwwwけど見ていたら体力が倍増されて
パワーアップするくらい迫力満点!!
沖縄の文化や沖縄という地域を好きだと思ってる人には物凄く関心しながら見て、踊って楽しめる企画だと思う。
アントニオ・ヴィヴァルディ
(Antonio Vivaldi 1675-1741)

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ヴィヴァルディは1675年頃イタリアはヴェネチアに生まれた。
彼は当時ヨーロッパでも有名な音楽家だったのに死後すっかり忘れ去られ、そのためあまり細かい身元調査が実はまだ出来てないのだそうだ。
一生をほとんどヴェネチアで過ごし当時隆盛を誇ったヴェネチア楽派の
中心人物だったが、世を去ったのは1741年、所はウィーンであったと言われている。この頃の音楽家は他に職業を持っているものが多かったが
、彼も本職はお坊さんで、頭の毛が赤かったために「赤毛の司教」というあだ名がついていた。
その作品は現在発見されたものだけでも505、60曲もあり、大変な多作家
であったことが分かる。
ヴィヴァルディの作品で1番重要なのは450曲以上も協奏曲だろう。そのため、彼を”協奏曲の父”と呼ぶ人もいるが、その協奏曲も弦楽器のみによる協奏曲が圧倒的に多い。中でも最も有名なのが『四季』と言われるヴァイオリン協奏曲で、これは50歳頃作品八として出版した12曲の協奏曲集の第一番から四番までの曲。
ヴィヴァルディの音楽はどれも線がくっきりとしてみづみづしい美しさに溢れている。バッハはその作品の多くをチェンバロやオルガンの協奏曲に編曲して様式を勉強しているが、今日ヴィヴァルディが認められるようになったのは逆にバッハのおかげである。バッハがまず音楽史の偉大な存在として認められ、続いてその大バッハが手本にしたヴィヴァルディという男は一体どこのどいつだろう、ということから捜査の手が伸びヴィヴァルディ研究が進んだ。
エルコンドルパサー
El Condor Pasa

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馬名エルコンドルパサー
El Condor Pasa
勝負服umaelcondorpasa.gif
キングマンボ
サドラーズギャル
生誕1995年3月17日
死没2002年7月16日
性別
毛色黒鹿毛
生産Takashi Watanabe
生国u_s_a-fs.gif
馬主渡邊隆
調教師二ノ宮敬宇(美浦)
生涯成績11戦8勝  [8-3-0-0]
獲得賞金3億7607万8000円、380万フラン
主な勝ち鞍ジャパンC、NHKマイルC、サンクルー大賞典、フォワ賞、NZT4歳Sなど他多数
主な受賞1988年:最優秀4歳牡馬
1999年:年度代表馬
1999年:最優秀5歳以上牡馬 


Kingmambo
鹿毛 (1990)
Mr.ProspectorRaise a Native
Gold Digger
MiesqueNureyev
Pasadoble
サドラーズギャル
鹿毛 (1989)
Sadler's WellsNorthern Dancer
Fairy Bridge
GlenveaghSeattle Slew
Lisadell

エルコンドルパサーは的場騎手とのコンビでNHKマイルC
まで連勝街道を突っ走っていた。

毎日王冠で的場騎手はエルコンドルではなく、もう1頭の
グラスワンダーを選択し騎乗したため、その後から蛯名騎手の騎乗馬になった。蛯名騎手にとっては人生最大の幸運が転がり込んできた。

エルコンドルパサーは毎日王冠でサイレンススズカの前に初めて黒星をつけられたが、日本の4歳馬として初めてジャパンCを制覇した。
国内にはエルコンドルと同等に戦える馬がいないため海外へ挑戦する
ことになる。

海外での結果は・・・。
(フランス)
イスパーン賞 (GⅠ): 2着
サンクルー大賞 (GⅠ): 1着
フォワ大賞 (GⅡ): 1着
凱旋門賞(GⅠ): 2着

以上・・素晴らしい成績を収めた。
凱旋門の2着は歴史に残る名勝負を演じた。
1着はモンジュー。日本史上初めての快挙だった。
欧州のホースメンを震撼させ、日本から初めて世界が認める名馬が誕生した瞬間だった!

今後は産駒に注目され・・・エルコンを越えられる子供を期待してみたいと思う。
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12日、フランスのTV番組に出演した。

勿論、W杯の決勝での退場処分を受けた詳細の話で。

その詳細とは・・・

「自分の母親と姉についてイタリアのマテラッツィ選手が「非常に激しい言葉で何度も」侮辱したのが暴力行為の原因」と答えた。

彼は今回の出来事(暴力)は後悔はしてないと・・・ただ決勝を楽しみに観戦していたファンや子供達にはおわびをしたいと発言。

やはり・・・後悔をしてないほど・・・相当な侮辱だったのでしょう。

人間は人によって許されるセリフと違う人には侮辱にも感じられる事があるので言葉は気をつけいないといけない思った。

でも、彼(ジダン)は自分の事を言われたのならまだしも・・・
収まりがついたのかも知れないが、家族の事を言われたら
彼の心の中では非常に許されなかったのでしょう。

しかし・・・いかなる理由でもあの暴力行為は許されない事だ。



イナリワン
Inari One

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馬名イナリワン
Inari One
勝負服umainarione.gif
ミルジョージ
テイトヤシマ
生誕1984年5月7日
死没
性別
毛色鹿毛
生産山本実儀
生国japan-fs.gif
馬主保手浜弘規
調教師福永二三雄(大井)/鈴木清(美浦北)
生涯成績25戦12勝  [12-3-2-8]
獲得賞金5億0932万6000円
主な勝ち鞍天皇賞(春)、宝塚記念、有馬記念、東京大賞典、東京王冠など
主な受賞1989年:年度代表馬
1989年:最優秀5歳以上牡馬



ミルジョージ
鹿毛 (1975)
Mill ReefNever Bend
Milan Mill
Miss CharismaRagusa
マタティナ
テイトヤシマ
鹿毛 (1970)
ラークスパーNever Say Die
Skylarking
ヤシマジェットソロナウェー
ヤシマニシキ


89年の春に、大井競馬場から中央入りしてきたイナリワン。中央入りして3戦目で天皇賞(春)をレコードで勝利した。
続く宝塚記念も連覇した。初戦のすばるSと2戦目阪神大賞典は惨敗したものの、G1を2連勝を成し遂げた事に驚かされた!

後に、あのアイドルホースオグリキャップと武豊に初めてG1をプレゼントした記念すべき馬、スーパークリークとのドラマも作った。毎日王冠はオグリキャップとの鼻差のデッドヒートは今も伝説である。

89年の有馬記念では天皇賞(秋)、JCで着外であったため、有馬記念では人気が落ちたが見事にスーパークリークを差しきり勝利した!G12勝はフロックではなかったが・・・中央で勝利できたのは、その天皇賞(春)、宝塚記念、有馬記念のG1のみしか勝てなかった!
誠に不思議な馬だった。大レースには強い馬だった。
結論は自分にはとても相性が悪かった馬でもあったwww
ワールドカップの決勝戦でレッド1発で退場させられたフランス代表のジダンの退場処分につながったイタリアDFマテラッツィへの頭突きの原因をめぐる憶測が広がっているそうな。
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ジダンの現役最後を飾る舞台で起こした騒ぎ。真相はまだ明らかになっていないそうな。

一部報道などでは、アルジェリア移民の子であるジダンが、「テロリスト」呼ばわりされたのではないかとの話も出ている。

マテラッツィの父、ジュゼッペ氏は「試合後に息子と数分話したが、挑発されていたのは自分だったと話していた」と、マテラッツィこそ「被害者」と訴えたそうな。

う~ん、今回の事は挑発したとしてもスポーツマンである以上、今回のジダンが起こした行動はよくないと思うし、彼はスーパースターという地位でもあるわけだしもう少し自分をコントロールしてもらいたかったですね。熱くなる気持も分からないわけでもないのだけど・・・。

どちらにせよ、どの記事見ても優勝したイタリアよりも話題になりすぎてる感じがするのは・・・なぜ??

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話は変わるが・・・イタリアの名門、ユヴェントスの次期監督候補は
ディディエ・デシャン氏が最有力となっているみたい。

事の発端はユーベが「サッカー不正疑惑」で来シーズンからセリエBに降格されそうになってきたことから現監督のファビオ・カペッロ氏がセリエAに残留した場合のみ留任するとの事で話が進んでたようだ。

まだ完璧に明らかにはされたないのだが・・・。
待ちに待った・・・W杯!
ついに・・・この1ヶ月が終了した。
1ヶ月はあっと・・・いう間に過ぎた。

選手たちにご苦労さんと言いたい。

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優勝を決めてくれたのは、82年大会以来、4回目優勝を果たしたイタリアだ!
今回のイレブンはそれぞれが得点ができ、尚且つ守備の選手達が(カンナバーロ、マテラッツィ、ブッフォンなど)万全な試合運びができて頼もしい限りだった。インザーギ、デルピエロとゴールしてもらいたかった選手に晴れの舞台でゴールしてくれたのは見ていて気持が非常に良かった。彼らしいゴールだった・・。
私は、イタリアファンとしてとても充実したワールドカップになった。
今までに初めてだ!自分が優勝してもらいたい国が優勝したのが・・。

スペインイタリアイングランドオランダチェコポルトガルと欧州組に期待していたのでとても嬉しい。特にイタリアは94年に決勝まで進んで、ブラジルとの戦いの中で史上初の決勝戦のPK戦で、まさか・・あの悪夢が甦る・・・自分の大好きなロビー(ロベルト・バッジョ)が・・・PKを外した。外れた瞬間・・・勝利の女神はブラジルを優勝に導いてしまう。
悔しい思いが今でも甦ってくる。

でも、今までの、嫌な過去も今回のドイツの舞台で一気に吹き飛ばさせてもらった!もし今回のスタメンにロビーがいたなら・・・って思ったら喜びも倍増していたかも知れない。

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イタリアのカテナチオは世界一だ!!
また・・・2010年の南アフリカ大会でも彼等の活躍が見られるのを楽しみにしていたいと思う!
夢をありがとう!! 

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待ちに待ったFIFAワールドカップ2006 決勝が始まる!

イタリアはここまで伝統の(カテナチオ)が健在で、ここまであがってきた。失点もわずか1点で。その失点はオウンゴールのもの。

しかし・・アズーリに痛手になったのはDFのネスタを負傷で欠いた事が勝負にどう左右されるか観戦していた。

ところがそれはさすがのアズーリだ!カンナバーロ、ブッフォンの鉄壁な守りで心強い守備。攻撃はリッピ監督の采配が大当たりしており、FW全員がそれぞれ得点した。

さて・・・対戦相手のフランスはグループリーグでは苦しんでいたものの徐々にあの優勝した時のフランスに戻ってきた感じ。

う~ん、さすがはジダン。ブラジル戦でジダンのアシストでアンリがゴールを決めたのは信じられないけど初めてだったそうな・・・。

まぁ~どちらにせよ!イタリアには2000年欧州選手権のリベンジとして戦ってもらいたい!

アズーリ!!

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イタリアスターティングメンバー

GK 1 ブッフォン
GK 12 ペルッツィ
GK 14 アメリア
DF 2 ザッカルド
DF 3 グロッソ
DF 5 カンナバーロ
DF 6 バルツァッリ
DF 13 ネスタ
DF 19 ザンブロッタ
DF 22 オッド
DF 23 マテラッツィ
MF 4 デ ロッシ
MF 8 ガットゥーゾ
MF 10 トッティ
MF 16 カモラネージ
MF 17 バローネ
MF 20 ペッロッタ
MF 21 ピルロ
FW 7 デルピエロ
FW 9 トーニ
FW 11 ジラルディーノ
FW 15 イアキンタ
FW 18 インザーギ

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フランス スターティングメンバー

GK 1 ランドロー
GK 16 バルテズ
GK 23 クーペ
DF 2 ブームソン
DF 3 アビダル
DF 5 ギャラス
DF 13 シルベストル
DF 15 テュラム
DF 17 ジベ
DF 19 サニョル
DF 21 シンボンダ
MF 4 ビエイラ
MF 6 マケレレ
MF 7 マルーダ
MF 8 ドラソー
MF 10 ジダン
MF 18 ディアラ
MF 22 リベリー
FW 9 ゴブー
FW 11 ビルトール
FW 12 アンリ
FW 20 トレゼゲ


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追記:もしあなたが監督、評論家だったら・・・自分だけのベストイレブンを作ってみませんか?↓
http://wc2006.yahoo.co.jp/supporter/best11/view?name=3KWfxD_JJhF.4xPY

本大会ドイツワールドカップの決勝進出のイタリア代表について・・。
別に大したことではないけど書いてみたいとおもうので書きます。

本大会のイタリア代表は何と11(イレブン)のほとんどが得点を決めているということ!

トーニ
インザーギ
マテラッツィ
イアキンタ
デル・ピエーロ
ジラルディーノ
ザンブロッタ
グロッソ
ピルロ
トッティ

の10人がそれぞれゴールを決めた!
その中でトーニが2点で他が1点ずつ。
珍しい・・・というか過去に86年メキシコ大会で
フランス代表が作った記録に今、並んでいる。

今度の決勝で、カモラネージ、カンナバーロ、ガットゥーゾ 、ペロッタあたりが得点すると記録更新ということになる。
まさに・・・優勝と記録更新に頑張って欲しい!!
ガンバレ!アズーリ!!

http://www.figc.it

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アイネスフウジン 
Aines Fujin

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馬名アイネスフウジン
Aines Fujin
勝負服ines-uni.gif
シーホーク
テスコパール
生誕1987年4月10日
死没2004年4月5日
性別
毛色黒鹿毛
生産中村幸蔵
生国japan-fs.gif
馬主小林正明
調教師加藤修甫(美浦)
生涯成績8戦4勝  [4-3-0-1]
獲得賞金2億4440万9200円
主な勝ち鞍東京優駿、朝日杯3歳S、共同通信杯4歳Sなど他多数
主な受賞1989年:最優秀3歳牡馬
1990年:最優秀4歳牡馬 



シーホーク
芦毛 (1963)
HerbagerVandale
Flagette
Sea NymphFree Man
Sea Spray
テスコパール
栗毛 (1976)
テスコボーイPrincely Gift
Suncou
ムツミパールモンタヴァル
マサリュウ


アイネスフウジン、今も忘れられない第57回日本ダービーを逃げ切り勝利して印象が物凄く深い。
今では伝説となった。
何故かというと、アイネスフウジンより騎手の中野栄治の方がイメージが強かった。
それはやはり中野コール!私も一緒に「な~か~の~」と叫んだ記憶がある(笑 
馬券も的中してたので大興奮!
ダービーの歴史の中で史上最も混んだダービーでもあった。
ダービー後は引退して種牡馬生活に入った。
昨日、中田英寿が現役引退決意!速報でで知った。

最初、代表引退なのかと思った・・・だが現役引退・・・ビックリしてしまった。

え?なぜ?衝撃であった。予想もつかない出来事だった。

彼らしい決断だとも思った。

これから第2の人生を頑張って欲しいと思う!
日本に夢や感動をありがとう!
今まで日本代表を支えてきた中心の中田がいなくなっても彼を越えられるプレーヤーが現れる日を待ちたいと思う。

本当に心からお疲れ様でした!

        ◆中田英寿◆

名前:    中田英寿
国籍:    日本
ポジション: MF
生年月日:  1977年1月22日
出身:    山梨県甲府市
身長:    175cm
体重:    72kg
血液型:   O型
愛称:    ヒデ
利き足:   右足
代表出場試合:77
ゴール数:  11

◆戦歴

1991年 - 甲府市立甲府北中学校3年生時にU-15に選出される。
1994年 - 山梨県立韮崎高等学校時代、Jリーグ12チーム中11チームから獲得オファーを受ける。
1995年 - ベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)に加入。同年FIFAワールドユース選手権でベスト8。
1996年 - アトランタオリンピック日本代表としてプレーし、アジア予選を突破。本大会ではブラジルに勝利する(マイアミの奇跡)。
1997年5月 - ワールドカップ日韓共催記念試合でA代表デビュー。
1998年 - フランスワールドカップに出場。大会後にセリエA・ACペルージャに移籍。シーズン開幕戦(対ユヴェントス戦)で2得点を挙げる。
2000年1月 - ASローマに移籍。
2000年9月 - シドニーオリンピックベスト8。
2001年6月 - コンフェデレーションズカップ出場。
2001年6月 - ASローマで日本人として初めてセリエA優勝(スクデット)。
2001年7月 - ACパルマに移籍。イタリア杯優勝。
2002年6月 - 日韓ワールドカップ ベスト16。1得点を挙げる。
2003年1月 - ボローニャに期限付き移籍。
2004年7月 - フィオレンティーナへ完全移籍。
2005年8月 - イングランド・FAプレミアリーグ ボルトン・ワンダラーズへ一年契約の期限付き移籍。
2006年6月 - 自身3度目となるドイツワールドカップに出場するが、グループリーグ敗退。
2006年7月 - 引退を表明する。

◆所属クラブ

1986年-1989年 - 北新サッカースポーツ少年団
1989年-1992年 - 甲府北中学校 サッカー部
1992年-1995年 - 山梨県立韮崎高等学校 サッカー部
1995年-1998年 - ベルマーレ平塚
1998年-2000年 - ACペルージャ
2000年-2001年 - ASローマ
2001年-2002年 - ACパルマ
2003年-2004年 - ボローニャ
2004年-2005年 - フィオレンティーナ
2005年-2006年 - ボルトン・ワンダラーズ




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