趣味の事(サッカー、競馬、音楽、映画 etc...)や その日の出来事や、気になったことを書いています。気まぐれなんですけどね^^

Selected category
All entries of this category were displayed below.
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
エドワード・ヴァン・ヘイレン
(Edward Van Halen  1957-)

vanhalenmein2.jpg


全てのジャンルのギタリストに支持され、現在最もホットな注目を浴びるギター・ヒーロー、エドワード・ヴァン・ヘイレンは1957年1月26日オランダに生まれる。

オランダ人の父親、そしてインドネシア人の母親の間に生まれた彼は、プロのミュージシャンであった父親の勧めで音楽の世界へのめりこんでいった。

5歳の頃、彼がまず最初に接した楽器はピアノっである。
兄のアレックスと共にクラシックを学び始めた訳だが、10歳になると家族がアメリカへ移住し、エディの興味は当然のごとくロックンロールと変わって行く。

ジッとピアノに向かっている事が耐えられなくなった彼は、ドラムを叩き始めた。このとき、兄アレックスが手にしたのはなんとギターである。

現在とはパートがまったく逆だという所が面白い。
この後、アレックスがドラムに興味を示しだし、エディとしては必然的にギターへ転向したのである。
ギターを弾くようになってから彼のギター・ヒーローとなったのは、クリーム時代のエリック・クラプトンだ。

当時としては人並み外れたクラプトンのテクニックに、彼もまた酔いしれた1人なのである。

その後、幼い頃に学んだクラシック・ピアノが役立ったのか、ギター・テクニックは日に日に上達。

次第に彼独特のスタイルを身につけていった。
あらゆるギタリストのコンサートに出かけてはそのテクニックを吸収し、家に帰ればアレックスのドラムとジャムを繰り返したエディは、16歳になると早くもハリウッドで有名なローカル・バンドに加入。
そのバンドでヴォーカルをとっていたのが、デヴィッド・リー・ロスだ。

つまり、ここにヴァン・ヘイレンの前身が出来上がったわけである。
78年、彼らはデビュー・アルバム『炎の導火線』をリリースした。
このアルバムは、シングル・カットされた「ユー・リアリー・ガット・ミー」が大ヒットした事もあり、全世界にヴァン・ヘイレン・ショックを与えた。

ストレートなパワフル・サウンドも去ることながら、エディのスーパー・テクニックに世界中の目が注がれた事は言うまでもない。
リリースから4ヵ月後には初来日を果たし、日本のギター・キッズの前で、それまで誰も考え付かなかった奏法【ライト・ハンド】を披露し、観た人全員をノック・アウトした事は今だ記憶に新しい。
このデビュー・アルバム以降、『伝説の爆撃機』(79年)『暗黒の掟』(80年)と立て続けに作品を発表。

アルバムをリリースするたびに新しい奏法を編み出すエディは、この時点で既にナンバーワンのギタリストとして君臨していたと言っても過言ではない。

81年には『戒厳令』を発表するが、このアルバムで見せるパーカッシヴな【ライト・ハンド・チョッパー】は、今だ具体的な方法について解明されていない。
彼の底知れぬアイディアは聴く人に格別を感じさせる程のものなのである。

82年にリリースされた『ダイヴァー・ダウン』からは「プリティー・ウーマン」をヒットさせ、ロック・マーケットだけでなくポピュラーな世界にも彼等の名前が浸透していく。
が、ヴァン・ヘイレンをビッグ・ネームに押し上げたのは、なんと言っても『1984』(84年)からの大ヒット・ナンバー「ジャンプ」である。
この曲によって彼らはジャンルの枠を外した全ての観衆からポピュラリティを得たのである。

彼のギター・スタイルは、それまでのロック奏法を変えてしまった。
彼が出現する以前、そして出現後では、ロック・ギタリストのアプローチがまるで違っている事がいい証拠である。決して大袈裟ではなく、彼があのジミヘンに匹敵するスーパー・ギタリストである事は間違いない。
フェイバリットアルバム
vanhalen1.jpg

スポンサーサイト
ジミ・ヘンドリックス
(Jimi Hendrix 1942-1970)

hendrixmein2.jpg


1942年ワシントン州シアトル生まれ。
ロック界においても最も伝説的なギタリストの一人。
軍隊除隊後64年頃からB.B.キングリトル・リチャードなどのバックを務めていたが、 66年に自己のバンド、ジミー・ジェイムズ&ザ・ブルー・フレイムスを率いてニューヨークで活動中、アニマルズのチャス・チャンドラーに見出される。

そのときチャンドラーはジミのプレイの素晴らしさに自らのキャリアを捨て彼のために自分のベースを売ったとも言われている。
その後ロンドンに渡りイギリスのミュージシャンであるミッチ・ミッチェル(Dr)、ノエル・レディング(B)とともにエクスペリエンスを結成、67年に「ヘイ・ジョー」でデビュー、アルバム「アー・ユー・エクスペリエント」を発表。

同年アメリカでのデビューとなったモンタレー・ポップ・フェスティバル、69年のウッド・ストックなどに出演。

ギターを歯で弾いたり、フィードバックを多用したアグレッシヴなサウンドなどすべてが衝撃的であった。その後、エクスペリエンスを解散、バンド・オブ・ジプシーを経てソロに転向。

70年夏のライヴに出演するが評論家筋からは不評を買った。が、結果的にはこれが彼の最後のライヴとなる。

70年9月18日、ドラッグの多用により27歳という若さで死亡。
死後も数多くの未発表録音のアルバムが発表されている。

         エレクトリック・レディランド
          jimihendrix1.jpg

キース・リチャード
(Keith Richards 1943-)

keithrichardsmein5.jpg


もうこんなグループは二度と現われないだろうと思える最高のロックンロール・バンド「ローリング・ストーンズ」のミック・ジャガーと並ぶ二枚看板として、スパースターの座に君臨するキース・リチャードは、1942年12月18日、イギリスのケント州ダートフォードで生まれた。14歳の時に両親からプレゼントされた10ポンドのスパニッシュ・ギターで、チャック・ベリーのフレーズをコピーすることから、彼のギタリストとしてのキャリアはスタートするわけだが、当時はほとんど毎日のようにギターの練習に明け暮れ、チャック・ベリーボ・ディドリーなどのプレイをマスターしていった。


そして、アート・スクールに通っている頃、たまたま通学途中の電車の中で、チャック・ベリーのレコードを持っている男に気付き、話かけたことから彼の人生は一変する。
その男とは、当時ロンドン経済大学の学生だったミック・ジャガーである。

チャック・ベリーという共通のアイドルを持つ2人だけに、その仲は急速に接近していくわけだが、どちらからともなく自分たちで演奏をしてみよう、ということになり3人の仲間を集めて「リトル・ボーイ・ブルー&ザ・ブルー・ボーイズ」を結成、ロック・スターへの第一歩を踏み出す。

そして、ロンドンのアンダーグラウンド・シーンでは強い影響力を持つ、アレクシス・コーナーの紹介でブライアン・ジョーンズと知り合い、3人は共同生活を始め新たなグループの構想を練った後、62年に「シルバー・ローリング・ストーンズ」を結成する。

その後、グループ名から「シルバー」が外され、ビル・ワイマン、チャーリー・ワッツを加え1962年12月に「ローリング・ストーンズ」のオリジナル・メンバーが顔を揃えるわけだが、その後のサクセス・ストーリーは周知のとおりだ。キース・リチャードのギター・ワークの魅力を一言でいうなら、そのエモーショナルかつエネルギッシュなカッティング・プレイの素晴らしさに尽きるだろう。

チャック・ベリーの影響を強く受けたカッティング・ワークはリズムのノリはもちろん、切れ味の良さなど、すべての面で白人最高のロックンロール・プレイヤーと呼ぶにふさわしいものであり、独特なタイム感によるタメの効いたプレイは、キースならではの味を持っている。それと、彼のギターを語る上で、欠かせないのがトレード・マークともいえるオープンGチューニングの5弦ギターだ。

普通のオープンGチューニングは6弦から、D,G,D,G,B,Dになっていて開放で鳴らすと正確にはG/Dのコードになってしまう。
そこで6弦を外し最低音をコードのルートであるGにしてしまうアイデアはなかなかのものだ。5弦ギターを使った代表的なものは「ブラウン・シュガー」「ホンキー・トンク・ウーマン」「スタート・ミー・アップ」などだが、どれもオープンGチューニングならではの響きが効果的で、コード進行がまずあって、そこに曲をつけたのでは、と思えるほどバッキングのパターンがピタリとはまっている。


それと、シンプルながらリフ作りのうまさも際立っており「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」「サティスファクション」など印象的なイントロ・リフを聴かせてくれるが、何と言っても、その最高峰は「ブラウン・シュガー」と「ホンキー・トンク・ウーマン」だろう。

SUS4、9thを巧みに織り混ぜたイントロ、そしてバッキングのパターンはチャック・ベリーのスタイルを発展させたロックンロール・ギターの名演として、高い評価を与えられて然るべきであり、ステージに立っただけで観る者を圧倒する存在感の大きさも含めて、まさに偉大なギタリストといっていいだろう。
リッチー・ブラックモア
(Ritchie Blackmore  1945年-)

blackmoremein2.jpg


キャリア、実力、人気の3拍子を兼ね備えたロック・ギター界の大御所、リッチー・ブラックモアは、1945年4月14日イギリスのウェストン・スーパー・メアで生まれる。
彼が最初に手にしたギターは、11歳の誕生日にプレゼントされたスパニッシュ・ギターである。

このギターを手に入れたリッチーは、さっそく近所に住んでいたロックンロール・ギタリスト、ビッグ・ジム・サリバンの元に通い数々のテクニックをマスターしていった。

数年後には友人を集めてバンドを結成するがそれだけでは満足出来ず、18歳になるとロックンロールの盛んであったハンブルグに渡る。以後22歳までロンドンとハンブルグを行き来していたが、ここで彼の運命を変える人物と出会う。


言うまでもなくジョン・ロードだ。ジョンに誘われ「ラウンドアバウト」というバンドに加入した訳だが、これがあの「ディープ・パープル」の前身である。69年、パープルは『紫の世界』でデビュー。

このアルバムからシングル・カットされた「ハッシュ」は全米ヒット・チャートの4位をランクする大ヒットとなり、彼らは翻刻よりもアメリカで一躍大成功を収めた。この後『詩人タリエシンの世界』『ディープ・パープルⅢ』『ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ』と立て続けにリリースしたが、ここまではジョン・ロード色の濃いサウンド・・・・・、つまりロックとクラシックの融合を目指したサウンドを繰り広げているため、リッチーがバンド内に及ぼす影響はまだまだ全開ではない。彼の音楽性が本格的に取り入れられたのは70年に発売した名盤『イン・ロック』からである。

このアルバムからヴォーカルにイアン・ギラン、ベースにロジャー・ゴローヴァーが加入し、ディープ・パープルはいわゆる第2期黄金時代を迎えたのである。また、リッチーは、ここでそれまで使っていたES335からストラトキャスターにギターをチェンジしている事も忘れてはいけない。

この『イン・ロック』で新たなシタイルを成功させたパープルは『ファイアー・ボール』『マシン・ヘッド』『ライヴィ・イン・ジャパン』『紫の肖像』を次々とヒットさせる。
『紫の炎』からは、ヴォーカルにデヴィッド・カヴァーデイル、ベースにグレン・ヒューズを迎え第3期が始まるが、次作『嵐の使者』をリリースした所でリッチーは音楽的対立という理由で脱退。
このニュースは全世界のロック・ファンにショックを与えたが、脱退後すぐに彼は「エルフ」のアルバム『トライング・トゥ・バーン・ザ・サン』に参加。


そしてエルフのメンバーをそのまま集め「リッチー・ブラックモアズ・レインボー」を結成した。
(後にレインボーと名称を変えている)レインボーはデビュー盤『銀嶺の覇者』を皮切りに『虹を翔る覇者』『レインボー・オン・ステージ』『バビロンの城門』『ダウン・トゥ・アース』を続々にリリースし、本家であるパープルのお株を完全に奪ってしまった。

正に゛リッチーあってのパープル゛だった事を証明した。
そしてアメリカン・マーケットを意識した『アイ・サレンダー』が発表される。このアルバムはそれまでのヘヴィなサウンドから一変したタイトルなポピュラリティを持つロック・サウンドを繰り広げている。
今でこそこの変貌は成功と言えるが、当時はそれまでのサウンドを惜しむファンも多く賛否両論の作品であった。その後『闇からの一撃』『ストリート・オブ・ドリームス』をリリースした後、彼はレインボーの活動を中止した。理由はディープ・パープル再結成である。

あの第2期黄金メンバーを集めまたもや新しい熱きアクトを開始したリッチーのパワーは衰えることを知らない。

  マシン・ヘッド
deeppurple1.jpg

ジェフ・ベック
(Jeff Beck  1944-)


本名ジェフリー・アーノルド・ベック 
1944年6月24日イギリスサリー州ウォリントン生まれ。ウォリントンはロンドンからも近い、穏やかな住宅地域で、商売をする人が多く住むいわゆる中流階級の人が多く住んでいるとこでもある。ジェフの家は地道に商売を営む父とごく普通の母である長男として生まれた。

1964年にエリック・クラプトンの後任としてヤードバーズに参加。フィードバック奏法を開発し、エキセントリックなギタープレイで注目される。66年にヤードバーズを脱退、翌年にロッド・スチュアート、ロン・ウッド、ニッキー・ホプキンスらを率いて、ジェフ・ベックグループを結成し、「トゥルース」(68年)、「ベック・オラ」(69年)の2枚のアルバムを発表、より独創的なブルース・ロックの世界を展開する。

解散後、再活動しようと思った矢先、交通事故に遭い約2年間の活動停止を余儀なくされる。 71年にコージー・パウエル、マックス・ミドルトンらによる第2期ジェフ・ベックグループを率いて見事にカムバックし 2枚のアルバムをリリース後、73年には、元バニラ・ファッジのカーマイン・アピス、ティム・ボガードと最強のロック・トリオといわれたベック、ボガード&アピスを結成するが1枚のアルバムを残すのみで解散。

75年以降はソロ活動に入り「ブロウ・バイ・ブロウ」、「ワイヤード」などのインストゥルメンタル・アルバムを発表して新境地を開いた。この頃はスタンリー・クラーク、ヤン・ハマーらとのコラボレイションが多かった。その後ナイル・ロジャースのプロデュースによるポップなアルバム「フラッシュ」を発表するが、89年にはテリー・ポジオ、トニー・ハイマスとトリオを組み再びインストゥルメンタル・アルバム「ギター・ワーク・ショップ」を発表する。

その後は「クレイジー・レッグス」、「WHO ELSE!」など世界のギタリストとしての健在ぶりをみせている。

お気に入りアルバム


「ブロウバイブロウ」

| HOME | Next

Design by mi104c.
Copyright © 2017 SMILEY CIRCLE  管理人のひとりごと, All rights reserved.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。