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フレデリック・ショパン
(Frederic Chopin 1810-1838)

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フレデリック・フランソワ・ショパンは、39年の短い生涯をほとんどピアノ音楽だけに捧げた特異な作曲家だった。

四歳頃からピアノに親しんだフレデリックは、8歳で協奏曲を弾きこなすほどの天才ぶりを発揮し、ワルシャワの貴族たちからはモーツァルトの再来ともてはやされた。
しかし、モーツァルトはもとよりベートーヴェンでさえも、音楽家としての出発は作曲家ではなくピアニストであったのに、彼等の作品は音楽のほとんどすべての分野にわたっている。

ショパンがピアノの詩人といわれ、作品がピアノの心と称されるように、彼の音楽はもともとピアノ的なのであって、ピアノという楽器以外で彼の音楽を表現することは不可能に近い。

ショパンの作品があれほど美しいメロディーをもっていながら、ヴァイオリンや管弦楽器に移されると、幾つかの例外はあるにしても、大部分が面白味を失ってみれば、いかに彼の音楽がピアノと切り離せないものかが分かる。
ピアノ的であるということ意外に、ショパンの音楽の色合いを特徴づけているものが2つある。1つは彼の生まれ故郷ポーランドの民族色で、他はパリの貴族会社の洗練された華麗さである。幼年期と少年期をワルシャワで、後半生をパリで過ごした彼の音楽には、この2つの特徴が混然と一体になっている。
ショパンは、フランス人の父とポーランド貴族の血をひく母との混血であった。これらの事情が、繊細で華美な一面、ほの暗い情熱とメランコリックな情緒を漂わせる、ユニークな音楽を作り出した。

彼は生涯に3つの恋をした。彼のあまりに潔癖で高貴な魂が、世俗的な結婚にこたえられなかったのか、まったく実を結ぶことはなかったが、幾つかの素晴らしい曲を生むきっかけとなった。
当時ワルシャワ音楽院声楽科の生徒だったコンスタンチン・グラドコフスカとの初恋は、「ワルツ変ニ長調作品70の3」や「第二ピアノ協奏曲」の第二楽章に少なからぬ影響を与えたし、彼の旧友ヴォジンスキー家のマリア・ヴォンジスカとの第二の恋は、「別れのワルツ」の別名で知られている「変イ長調作品69の1」を生んだ。
ショパン25歳の夏のことである。最後の恋、有名な女流作家ジョルジュ・サンドとの同棲は、生来ひ弱な彼を疲労させた。

サンドの愛犬がじゃれ回るのを見て思いついたと言われている「子犬のワルツ」をはじめ「華麗なるワルツ」、「幻想即興曲」、「葬送行進曲付ソナタ」
など充実した多くの作品を書きながら、1846年、9年間に及んだサンドとの生活に終止符をうった彼は、再び彼女のもとにもどらなかった。
3年後の1849年10月17日、疲れて胸を病んだショパンは、パリで39歳の生涯を閉じた。マドレーヌ寺院で行われた葬儀には、モーツァルトのレクイエムが用いられたという話だ。

さっき紹介した曲以外にもまだまだたくさんの作品を残している。彼の作品にはニックネームのついたごく有名なものばかりを拾いあげても、大変な数だ。しかし大別して、サロン的な貴族趣味を反映した「夜想曲」「前奏曲」「練習曲」や「ワルツ」などと「スケルツォ」「マズルカ」「ポロネーズ」のように、ポーランドの土の香りが濃いものと分けられる。
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ルードウィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
(Ludwig van Beethoven 1770-1827)




ペンを握った肖像画や、石こう作りのデス・マスクでご存知の人も多いと思うが、ベートーヴェンはどんぐりまなこで骨ばったゴツイ顔、ぼさぼさ頭でお世辞にも美男子とは言えないほどだった。

その上色黒く背は低く、首短く背を丸めて歩くため、少年の頃はスペイン人、ハイドンからは「蒙古大王」というあだ名をつけられた。

16歳でやさしい母を失い、飲んだ暮れの乳で少年の頃から苦労してきたベートーヴェンがウィーンに出てきたのは22歳の時であったそうな。

その前にモーツァルトに師事しようとして果さず、以来特にすばらしい先生に恵まれたと言えない彼がまず門を叩いたのは老ハイドンであった。
ハイドンは忙しくてあまり教えてくれなかったが、元来努力型の彼は自力でこの都会から音楽上のこと、社会的なことなどを勉強してゆく。
ベートーヴェンも始めはピアニストとして出発したため初期はピアノ作品が多いが、今日よく聞かれる作品中一番若い頃の作は「ピアノ・ソナタ悲愴」である。ここは既にベートーヴェン独自の、創造する情熱のスパークが青春の甘い涙と共にみられるのである。ピアノ・ソナタと言えばもう一つ「月光ソナタ」を思い出されるだろうけどこれはジュリエッタ・グイチャルディ嬢に捧げられた。

ところでベートーヴェンに恋人がいたというのは死後発見されたラヴ・レターからも確かだが、その中で”不滅の愛人”と呼んでいるのは誰だかわからない。一説にはこのグイチャryディだとし、一説には一時婚約までしたテレーゼ・ブランシュヴィックという女性であると言われるが、結局どちらにしても破恋に終わりベートーヴェンは独身を通すことになる。あの有名な「エリーゼのために」も本来は”テレーゼの為に”が正しく、エリーゼになったのは出版の際手落ちだったと言う人もいるそうな。

ベートーヴェンはピアニストとしても作曲家としても次第に名を売り、洋々たる将来が約束されたかたに見えた。ところが音楽家として致命的な悪性な耳の病が起こって遺書を書くところまで追い詰める。
これが有名なハイリゲンシュタットでの遺書であるが、これも死後発見されたもので、ベートーヴェンが本当に自殺するつもりで書いたかどうかは疑わしいという説を立てる人もいる。
とにかく彼は死ななかった。むしろウィーンに帰ったベートーヴェンは初めて自分だけの作品発表会を開くのをきかっけに一回り大きく、たくましく、充実したいわゆる中期の作品を相次いで生み出すことになる。
「ヴァイオリン・ソナタ クロイツェル」「交響曲第三番 英雄」「ピアノ・ソナタ ワルトシュタイン」、後にフィデリオと改題した彼唯一のオペラ「レオノーレ」・・・。

このうち「英雄」はちょうど熟したヒナが自ら殻を破るように、内的なものがふくらみそれ迄の交響曲の懸念を破った画期的な曲でナポレオンに捧げるつもりだったが彼の皇帝就任を聞いて「あの男も結局自分の野心をみたした俗人だった」と、表紙を破り捨てたという話はベートーヴェンの民主的な考えを表す逸話として有名である。

こうした作品を序奏のロマン・ロランが”傑作の森”と評した実り多い時代を迎えるが、そこにはラズモフスキー公爵に捧げた作品59の一番から三番の「弦楽四重奏曲」「ヴァイオリン協奏曲」「交響曲第五番」「交響曲第六番 田園」「ピアノ・ソナタ 情熱」「ピアノ協奏曲第五番 皇帝」といった現在でも最もよく聞かれる曲がひしめき合っている。
その中で「田園」は彼自身でつけた題名、一方「第五交響曲」の方は最初のタタタターという音を指してベートーヴェンが「運命はこのようにして扉を叩くのだよ」と言ったため俗に「運命」と言われているがこの呼び名は実は日本だけで外国では単に「交響曲第五番」といわれるだけである。

その後も作曲の筆は進み・・・ワーグナーが後に”舞踏の聖化”と呼んだ「交響曲第七番」、彼の一番短い交響曲「交響曲第八番」などが完成する。
しかし・・ベートーヴェンの耳はますます悪化し、48歳頃からほとんど聞こえず、日常会話も首からぶら下げた筆談帳で交わす状態になる。
しかし後見を買って出た甥カールの世話が手にあまり晩年の生活は雑事と貧困との戦いとなるが作風も中期の力んだ激しさ人間臭さに代わってもっと簡潔で瞑想的な深さを見せ始めた。

後期の「弦楽四重奏曲」はその代表的なものであるが、大作では「荘厳ミサ」に続いて、シラーの詩”歓喜に寄す”を加えた不滅の名作「交響曲第九番 合唱」がつに大きな姿を現すことになる。
ベートーヴェンは散歩と酒が好きだった。ウィーンの森やハイリゲンシュタットの田園を散策しながら、随分溢れる曲想を頭に描いたことだろう。
しかし、死の前年弟ヨハンを訪れたのを最後に、肺炎と黄だんを併発、それから四ヶ月後に巨匠はこの世を去った。

ベートーヴェンは貧苦の中に生涯を終えたといってもさすがその死は大きな波紋を投げ葬儀の日はウィーンの学校も休みとなり二万人の大群衆がその死を慎んだという。

彼は物凄い悠然としたスケールの大きい傑作を沢山残した。
ウォルガング・アマデウス・モーツァルト
(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)

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モーツァルトの生涯はたった35年間だったが、6歳からすでにクラウザン(ピアノの前身)の神童として演奏旅行に忙しかったから、音楽生活は役30年間あった。そのうちはじめの10年間はミュンヘンを皮切りに、ウィーン、ロンドン、パリ、ナポリなど計9回の旅行で費された。この頃のモーツァルトは父レオポルドと共に故郷ザルツブルグに腰を落ち着ける間もなく、旅で演奏し、作曲し、病気し、そして成長したのであった。少年モーツァルトの天才ぶりを伝える逸話は多い。
ウィーでは皇帝から「指1本で弾いたり、鍵盤に布をかぶせて弾いたら大したものだ」と冗談を言われ、その通りに演奏し、ナポリでは何とはめていた指輪に魔力があるに違いないと疑われ、指輪を外して演奏せねばならなかったという。
こうしてヨーロッパを歩き回ったモーツァルトも、16歳でザルツブルグ宮廷楽団に正式につかえるのを機に故郷を中心に活動することが多く、作曲に専念し始めるが、この頃の作品で今親しまれてるのは「ヴァイオリン協奏曲」、特に華美なフランス・スタイルでかかれた「第三番」「第四番」
それにトルコ風と呼ばれる「第五番」だろう。
21歳~23歳にかけてはパリ、マンハムへの旅、その旅先での母の死、しかも失恋と波乱の多い年となった。その上名演奏も少年だからこそ軽業的見世物にもなったが、20歳を越せばもう”いくらうまくても当たり前”と以前ほど受けず、モーツァルトも初めて冷たい世間の風に当たった時期でもあった。
2曲の「フルート協奏曲」「フルートとハープの為の協奏曲」終楽章のトルコ行進曲で有名な「ピアノ・ソナタ K331」などがこの頃作品。

26歳の時に父の反対を押し切り失恋相手の妹コンスタンツェと結婚した。音楽史上ハイドンとモーツァルトの妻は悪妻というのが通り相場だが、性質はむしろ善良で単純だった。しかし建設的能力に欠け、内助の功は持ち合わせず、このため亭主はいろいろ苦労することになるが、とにかくこれを機にウィーンに定住して創作に精を出すのである。
「交響曲第36番 リンツ」「交響曲第38番 プラーハ」「ピアノ協奏曲 K466」「ピアノ協奏曲 K488」「ピアノ協奏曲 K491」、オペラ「フィガロの結婚」などの傑作は以後30歳までの間に生まれた。

続いてオペラ「ドン・ジョバンニ」がプラーハで大当たりしたが、この序曲は初演前夜妻に面白い話をさせて眠気をさましながら一夜で書いたという有名なエピソードを持っている。大当たりを取ったといっても計画的な生活と金儲けを知らないモーツァルト家は一向に楽にならない。有名なアイネ・クライネ・ナハト・ムジークの題を持つ「弦楽セレナーデ」「ピアノ協奏曲 戴冠式」そしてさん然と輝く彼の三大交響曲「第39番」「第40番」「第41番 ジュピター」が、たったの二ヶ月で書き上げられたのもこの頃だ。

モーツァルトの晩年は収入をあげようとして歩き回り歩き回っては損をし、損をしては借金を増やすという悪循環で、その上目にみえて健康が衰え、妻もまた秒意という不遇さだった。
35歳の時、つまり死の年モーツァルトは名作「魔笛」を書いてるところへ名を伏せた男から「レクイエム」の作曲依頼を受ける。彼はこれを自分の為の鎮魂曲であると信じて筆を進めるが、ついに力尽きて未完のままこの世を去った。

モーツァルトの作品の中には駄作が少ない作曲家であった。
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン
(Franz Joseph Haydn 1732-1809)


ベートーヴェンはハイドンの死後、この先輩の生家の絵を一生飾っていたというが、そのえは大変粗末なわらぶき屋根の田舎家だった。父は東大工で母は料理番上がりだったが、その屋根の下は、夜になると皆で歌や楽器を楽しむなかなかなごやかな家庭であった。中でも長男のハイドンは声がずば抜けてよかったので、8歳の時はもうウィーンの聖シュテファン教会の合唱団で歌うことが出来た。しかしその後は悪戦苦闘の連続、流しをしたり、巡礼に飛び入りしたり劇音楽を書いたり、やっと落ち着いたのは29歳の時、エステルハーツィ候に雇われてからである。
ハイドンは以後、白の靴下、白のリンネル、かつらをつけ白粉をつけるというこの邸の正装で30年を過ごすことになる。
君主には忠実で、団員たちからは、『パパ・ハイドン』と親しまれたこの邸での生活は、よく知られている。
午前中は練習、午後からは宮廷のための演奏や祝祭そのほか行事の音楽、夜は夜で食事のBGMや特別音楽会。
当時の貴族とはいい気なものであるが、ハイドンはこの主人に1度作品で無言の抗議をしたことがある。
エステルハーツィ候は毎夏楽団を連れ避暑に行く習慣だったが、ある年その期間を二ヶ月も延長しようと言い出したのだった。
楽員たちは早く休暇をとって帰りたい、そこでハイドンは幾智にとむ新曲を書いて候の前で演奏した。この曲は現在「交響曲第45番 告別」として知られている。

この宮廷でのハイドンの作品は膨大な数になるが、現在よく演奏される曲には「告別交響曲」の他、「チェロ協奏曲 二長調」「チェムバロ協奏曲二長調」また弦楽四重奏ではギターを模したピチカートに乗ってヴァイオリンが優しく歌う作品三の五「セレナーデ」や始めの主題がひばりのさえずりに似て爽快な作品64の5「ひばり」などがある。

長いようであり短い30年はまたたく間に過ぎた。1970年エステルハーツィ候は世を去り、ハイドンはまた自由の身となる。その彼を待っていたのはロンドンでの演奏会の話だった。この話にはモーツァルトが「パパ、あなたは広い世間をご存じない」と見知らぬ国への旅を反対したという話が伝わっているが、その心配をよそに演奏会は大成功で、1年半の後再びロンドンを訪れている。この二度にわたるイギリス旅行はハイドンにかなりの収入ばかりでなく、作品上でも素晴らしい収穫をもたらした。
俗にザロモン・セットと言われる十二の交響曲がそれである。この中には静かな第二楽章の中途で急にびっくりするような強奏が現れる「第九十四番 驚愕」演奏会でシャンデリアが落ちたのに誰一人重傷も負わなかったため【奇蹟】と名づけられた「第九十六番」曲中に、軍隊風の信号がトランペットで吹かれる「第100番 軍隊」時計のチクタク音を思わせるリズムを使った「第101番 時計」といった有名な曲を含むが、いずれも充実し
自由の身となったハイドン老のハッスルしたさまが良く分かる。

ハイドンの晩年は再びエステルハーツィ家で楽団を再建したり、オラトリオ「天地創造」や「四季」といった大曲を仕上げたり器楽では「トランペット協奏曲」のような名作も生んだが、「もうこの世では役立たない、神のお召しを子供のように待つばかり」というのを口癖に、皇帝賛歌を毎日ピアノで弾きながら77歳でこの世を去った。
ヨハン・セバスチャン・バッハ
(Johann Sebastian Bach 1685-1750)
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中部ドイツのバッハ家は、二百年に渡り50人もの音楽家を生み出した音楽一族だった。ヨハン・セバスチャン・バッハは1685年アイゼナッハ生まれ、幼い頃の事はあまりわかってはいないけど、パッヘルベルとかブックステフーデなど当時の有名作曲家の作品を月明かりの下でコピーした程音楽に熱心な子だったそうな。
バッハの一生は普通の3つの時期に分けて考えられてる。
最初は23歳の時ワーマール領主エルンストの宮廷楽師としてつかえ9年を過ごしたワーマール時代、次はケーテンの宮廷楽長を6年務めたケーテン時代、最後は38歳から世を去るまで聖トマス教会の合唱長の職にあったライプチッヒ時代。

ワーマール時代は宮廷礼拝堂のオルガニストも兼ねていたため、彼のオルガン曲の大半がここで作曲されたが、当時バッハが既に腕の立つオルガン弾きだったかを知る有名な逸話がある。
彼が丁度ドレスデンを訪れた時たまたまフランスの名オルガニスト、マルシャンが滞在中だった。人々は2人を競演させる計画を立てたが、いよいよ当日バッハが会場に行ってみるとマルシャンはその早朝町を立ち去ったそうだ。
人々はマルシャンがバッハの腕に恐れをなして逃げ出したのだと解釈したらしい。これでバッハの名声は高まった。

この年バッハはケーテンに転職する。ケーテンでの才一は素晴らしかった。領主は音楽好きで宮廷楽団は優秀、給料も良かった。ここでは彼の器楽曲のほとんどが生まれたが、悲しい事件も起こっている。それは妻マリア・バルバラの急死であった。バッハは若い頃聖歌隊のならず者と大立ち回りを演じたりワイマールをやめる時は辞職を認められず反抗したバッハは遂に不服従剤で牢にぶち込まれる。

しかし過程ではよい夫であり、マリア・バルバラとの間に7人、次のマグダレーナとの間に13人もの子供をもうけるという愛妻家で音楽の父バッハはまた30人という子供達の父でもあった。

最後のライプチッヒ時代はバッハの一生で最も長く、オラトチオ、ミサ曲、受難曲など宗教的なさんぜんたる大曲が生まれた。
しかし残念ながら失明、卒中の苦しみを味わいつつ65歳の生活を終えた。

バッハの作品で最も親しみやすいのは6曲からなる「ブランデンブルグ協奏曲」だ。この曲はブランデンブルグのルードヴィッヒ伯に捧げられたためにこの名がある。中でも4番、5番が楽しい。協奏曲ではこの他「ヴァイオリン協奏曲第二番」がイタリア風な華麗さで「二つのヴァイオリンの為の協奏曲」は第二楽章の天国的な美しさで親しまれている。管弦楽曲では第三番が最も有名な「G線上のアリア」の原曲を含むことで有名である。
オルガン曲では「トッカータとフーガニ短調」が素晴らしい。

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