ルードウィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770−1827)

ペンを握った肖像画や、石こう作りのデス・マスクでご存知の人も多いと思うが、ベートーヴェンはどんぐりまなこで骨ばったゴツイ顔、ぼさぼさ頭でお世辞にも美男子とは言えないほどだった。
その上色黒く背は低く、首短く背を丸めて歩くため、少年の頃はスペイン人、ハイドンからは「蒙古大王」というあだ名をつけられた。
16歳でやさしい母を失い、飲んだ暮れの乳で少年の頃から苦労してきたベートーヴェンがウィーンに出てきたのは22歳の時であったそうな。
その前にモーツァルトに師事しようとして果さず、以来特にすばらしい先生に恵まれたと言えない彼がまず門を叩いたのは老ハイドンであった。
ハイドンは忙しくてあまり教えてくれなかったが、元来努力型の彼は自力でこの都会から音楽上のこと、社会的なことなどを勉強してゆく。
ベートーヴェンも始めはピアニストとして出発したため初期はピアノ作品が多いが、今日よく聞かれる作品中一番若い頃の作は「ピアノ・ソナタ悲愴」である。ここは既にベートーヴェン独自の、創造する情熱のスパークが青春の甘い涙と共にみられるのである。ピアノ・ソナタと言えばもう一つ「月光ソナタ」を思い出されるだろうけどこれはジュリエッタ・グイチャルディ嬢に捧げられた。
ところでベートーヴェンに恋人がいたというのは死後発見されたラヴ・レターからも確かだが、その中で”不滅の愛人”と呼んでいるのは誰だかわからない。一説にはこのグイチャryディだとし、一説には一時婚約までしたテレーゼ・ブランシュヴィックという女性であると言われるが、結局どちらにしても破恋に終わりベートーヴェンは独身を通すことになる。あの有名な「エリーゼのために」も本来は”テレーゼの為に”が正しく、エリーゼになったのは出版の際手落ちだったと言う人もいるそうな。
ベートーヴェンはピアニストとしても作曲家としても次第に名を売り、洋々たる将来が約束されたかたに見えた。ところが音楽家として致命的な悪性な耳の病が起こって遺書を書くところまで追い詰める。
これが有名なハイリゲンシュタットでの遺書であるが、これも死後発見されたもので、ベートーヴェンが本当に自殺するつもりで書いたかどうかは疑わしいという説を立てる人もいる。
とにかく彼は死ななかった。むしろウィーンに帰ったベートーヴェンは初めて自分だけの作品発表会を開くのをきかっけに一回り大きく、たくましく、充実したいわゆる中期の作品を相次いで生み出すことになる。
「ヴァイオリン・ソナタ クロイツェル」「交響曲第三番 英雄」「ピアノ・ソナタ ワルトシュタイン」、後にフィデリオと改題した彼唯一のオペラ「レオノーレ」・・・。
このうち「英雄」はちょうど熟したヒナが自ら殻を破るように、内的なものがふくらみそれ迄の交響曲の懸念を破った画期的な曲でナポレオンに捧げるつもりだったが彼の皇帝就任を聞いて「あの男も結局自分の野心をみたした俗人だった」と、表紙を破り捨てたという話はベートーヴェンの民主的な考えを表す逸話として有名である。
こうした作品を序奏のロマン・ロランが”傑作の森”と評した実り多い時代を迎えるが、そこにはラズモフスキー公爵に捧げた作品59の一番から三番の「弦楽四重奏曲」「ヴァイオリン協奏曲」「交響曲第五番」「交響曲第六番 田園」「ピアノ・ソナタ 情熱」「ピアノ協奏曲第五番 皇帝」といった現在でも最もよく聞かれる曲がひしめき合っている。
その中で「田園」は彼自身でつけた題名、一方「第五交響曲」の方は最初のタタタターという音を指してベートーヴェンが「運命はこのようにして扉を叩くのだよ」と言ったため俗に「運命」と言われているがこの呼び名は実は日本だけで外国では単に「交響曲第五番」といわれるだけである。
その後も作曲の筆は進み・・・ワーグナーが後に”舞踏の聖化”と呼んだ「交響曲第七番」、彼の一番短い交響曲「交響曲第八番」などが完成する。
しかし・・ベートーヴェンの耳はますます悪化し、48歳頃からほとんど聞こえず、日常会話も首からぶら下げた筆談帳で交わす状態になる。
しかし後見を買って出た甥カールの世話が手にあまり晩年の生活は雑事と貧困との戦いとなるが作風も中期の力んだ激しさ人間臭さに代わってもっと簡潔で瞑想的な深さを見せ始めた。
後期の「弦楽四重奏曲」はその代表的なものであるが、大作では「荘厳ミサ」に続いて、シラーの詩”歓喜に寄す”を加えた不滅の名作「交響曲第九番 合唱」がつに大きな姿を現すことになる。
ベートーヴェンは散歩と酒が好きだった。ウィーンの森やハイリゲンシュタットの田園を散策しながら、随分溢れる曲想を頭に描いたことだろう。
しかし、死の前年弟ヨハンを訪れたのを最後に、肺炎と黄だんを併発、それから四ヶ月後に巨匠はこの世を去った。
ベートーヴェンは貧苦の中に生涯を終えたといってもさすがその死は大きな波紋を投げ葬儀の日はウィーンの学校も休みとなり二万人の大群衆がその死を慎んだという。
彼は物凄い悠然としたスケールの大きい傑作を沢山残した。