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クリフジ
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昭和17年にセリで1頭の牝馬を一目で気に入り購入した栗林友二(故)その当時は評価が低く値も安かった。 その牝馬は「クリフジ」と名づけられ、東京の尾形藤吉調教師に預けられた。 4歳の5月に新馬戦デビューした。 当初は保田隆芳騎手が兵役でいないので見習いの前田長吉が騎乗することになった。結果は出遅れながらも2着馬に1馬身差で快勝した。 この1馬身が彼女にとって最小馬身で以後は3馬身、6馬身、大差とそのほとんどが圧勝だった。 日本ダービーは5月デビューでありながらもギリギリ間に合い ここも6馬身差でレコード勝ちを収めた。 このダービーでの強さは語り草になっている。当時はバリアースタートだったが、それが上がった瞬間にクリフジは前脚を上げ、くるりと1回転してから走り出すという大出遅れ。 後方を進んで4コーナーからひとまくりし、直線で24頭を抜き去り坂を上がらない前に先頭にたっていた。 この時、前田騎手が、ゴールまでの200メートルで何度も後ろを向いたので、栗林氏がレース後尋ねてみると「後ろから何も音がしないので心配になったから」と言ったそうな。 クリフジはオークス(当時は阪神で開催)でも2着馬に10馬身も離してレコードで勝利した。 その後の菊花賞も大差勝ちした。 彼女は変則3冠馬となった。しかし・・・牝馬ながら凄い快挙である。しかも・・・生涯1度も負けることなく11戦11勝という不敗神話を作り引退した。 繁殖牝馬になっても産駒、イチジョウ(桜花賞、オークス)などのクラシックホースをこの世に送った。 その後、晩年は小さな牧場で静かな余生を送った。 |
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エドワード・ヴァン・ヘイレン
(Edward Van Halen 1957-) ![]() 全てのジャンルのギタリストに支持され、現在最もホットな注目を浴びるギター・ヒーロー、エドワード・ヴァン・ヘイレンは1957年1月26日オランダに生まれる。 オランダ人の父親、そしてインドネシア人の母親の間に生まれた彼は、プロのミュージシャンであった父親の勧めで音楽の世界へのめりこんでいった。 5歳の頃、彼がまず最初に接した楽器はピアノっである。 兄のアレックスと共にクラシックを学び始めた訳だが、10歳になると家族がアメリカへ移住し、エディの興味は当然のごとくロックンロールと変わって行く。 ジッとピアノに向かっている事が耐えられなくなった彼は、ドラムを叩き始めた。このとき、兄アレックスが手にしたのはなんとギターである。 現在とはパートがまったく逆だという所が面白い。 この後、アレックスがドラムに興味を示しだし、エディとしては必然的にギターへ転向したのである。 ギターを弾くようになってから彼のギター・ヒーローとなったのは、クリーム時代のエリック・クラプトンだ。 当時としては人並み外れたクラプトンのテクニックに、彼もまた酔いしれた1人なのである。 その後、幼い頃に学んだクラシック・ピアノが役立ったのか、ギター・テクニックは日に日に上達。 次第に彼独特のスタイルを身につけていった。 あらゆるギタリストのコンサートに出かけてはそのテクニックを吸収し、家に帰ればアレックスのドラムとジャムを繰り返したエディは、16歳になると早くもハリウッドで有名なローカル・バンドに加入。 そのバンドでヴォーカルをとっていたのが、デヴィッド・リー・ロスだ。 つまり、ここにヴァン・ヘイレンの前身が出来上がったわけである。 78年、彼らはデビュー・アルバム『炎の導火線』をリリースした。 このアルバムは、シングル・カットされた「ユー・リアリー・ガット・ミー」が大ヒットした事もあり、全世界にヴァン・ヘイレン・ショックを与えた。 ストレートなパワフル・サウンドも去ることながら、エディのスーパー・テクニックに世界中の目が注がれた事は言うまでもない。 リリースから4ヵ月後には初来日を果たし、日本のギター・キッズの前で、それまで誰も考え付かなかった奏法【ライト・ハンド】を披露し、観た人全員をノック・アウトした事は今だ記憶に新しい。 このデビュー・アルバム以降、『伝説の爆撃機』(79年)『暗黒の掟』(80年)と立て続けに作品を発表。 アルバムをリリースするたびに新しい奏法を編み出すエディは、この時点で既にナンバーワンのギタリストとして君臨していたと言っても過言ではない。 81年には『戒厳令』を発表するが、このアルバムで見せるパーカッシヴな【ライト・ハンド・チョッパー】は、今だ具体的な方法について解明されていない。 彼の底知れぬアイディアは聴く人に格別を感じさせる程のものなのである。 82年にリリースされた『ダイヴァー・ダウン』からは「プリティー・ウーマン」をヒットさせ、ロック・マーケットだけでなくポピュラーな世界にも彼等の名前が浸透していく。 が、ヴァン・ヘイレンをビッグ・ネームに押し上げたのは、なんと言っても『1984』(84年)からの大ヒット・ナンバー「ジャンプ」である。 この曲によって彼らはジャンルの枠を外した全ての観衆からポピュラリティを得たのである。 彼のギター・スタイルは、それまでのロック奏法を変えてしまった。 彼が出現する以前、そして出現後では、ロック・ギタリストのアプローチがまるで違っている事がいい証拠である。決して大袈裟ではなく、彼があのジミヘンに匹敵するスーパー・ギタリストである事は間違いない。 フェイバリットアルバム ![]() |
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我が国から世界の舞台へ挑戦するディープインパクト!
いよいよ!10月1日、日本時間2日午前12時35分発走が迫って来た。 今まで日本馬が挑戦してきたがいずれもエルコンドルパサーの2着が最高でディープには期待が高まる!しかし、そう簡単に制することが出来ないのが競馬だ。ここまで来たら世界を制して世界のホースメン達を驚愕させてもらいたいものだ。 ◆凱旋門賞に挑戦した過去の日本馬 1969年:スピードシンボリ(着外) 1972年:メジロムサシ(18着) 1986年:シリウスシンボリ(14着) 1999年:エルコンドルパサー(2着) 2002年:マンハッタンカフェ(13着) 2004年:タップダンスシチー(17着) 2006年:ディープインパクト(?) 凱旋門賞 GI・2400m芝 THE PRIX DE L'ARC DE TRIOMPHE
◆地上放送 放送予定 NHK総合テレビ:10月2日午前0時2分 NHK衛星第1:10月1日午後11時30 |
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ジミ・ヘンドリックス
(Jimi Hendrix 1942-1970) ![]() 1942年ワシントン州シアトル生まれ。 ロック界においても最も伝説的なギタリストの一人。 軍隊除隊後64年頃からB.B.キング、リトル・リチャードなどのバックを務めていたが、 66年に自己のバンド、ジミー・ジェイムズ&ザ・ブルー・フレイムスを率いてニューヨークで活動中、アニマルズのチャス・チャンドラーに見出される。 そのときチャンドラーはジミのプレイの素晴らしさに自らのキャリアを捨て彼のために自分のベースを売ったとも言われている。 その後ロンドンに渡りイギリスのミュージシャンであるミッチ・ミッチェル(Dr)、ノエル・レディング(B)とともにエクスペリエンスを結成、67年に「ヘイ・ジョー」でデビュー、アルバム「アー・ユー・エクスペリエント」を発表。 同年アメリカでのデビューとなったモンタレー・ポップ・フェスティバル、69年のウッド・ストックなどに出演。 ギターを歯で弾いたり、フィードバックを多用したアグレッシヴなサウンドなどすべてが衝撃的であった。その後、エクスペリエンスを解散、バンド・オブ・ジプシーを経てソロに転向。 70年夏のライヴに出演するが評論家筋からは不評を買った。が、結果的にはこれが彼の最後のライヴとなる。 70年9月18日、ドラッグの多用により27歳という若さで死亡。 死後も数多くの未発表録音のアルバムが発表されている。 エレクトリック・レディランド ![]() |
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